翌朝、俺は早起きをした。 6時にはベッドから脱け出して、念入りに身なりを整え、ホテルのロビーにおりていった。 俺が10時より早く起床するなんて、それこそ2、3年ぶりくらいのことだったろう。 でも、俺はそうしないわけにはいかなかったんだ。 もし彼女がこのホテルの宿泊客で、今日がチェックアウトの日で、朝早く出立することになっていたら、俺はもう二度と彼女に会えないんだから。 ロビーでいらいらしながら、4時間――いや、5時間待った。 俺にその時間を実際より長く感じさせたのは、『待つ』ことの苛立ちより、『もう彼女に会えないのではないか』という不安だったろう。 待たされていること(俺が勝手に待っているだけなんだが)ではなく、待っていることが徒労に終わることへの不安。 だから、ホテルのロビーに彼女の姿を認めた時、俺は、待たされ続けたことへの苛立ちより、不安が解消した喜びの気持ちに強く支配された。 彼女は、昼にはまだ少し間があるという時刻になってから、俺の目の前に現われた。 彼女が現われた途端、それまで希望の見えない くすんだ灰色の世界に感じられていた場所に、ぱっと光が射し込んだような気がした。 その時の俺の感激! 彼女は白昼夢の中に住む人ではなく、実在する人間だったのだと確信できることの幸福感。 これは、誰にもわからないだろう。 俺自身にだって、わからなかったんだから。 昨日ほんの数秒、二言三言言葉を交わしただけの相手に、なぜ俺はこれほど心惹かれているのか――。 ロビーの一画から俺が彼女を見詰めていることに気付いてもいない様子で、彼女は、ラウンジの庭に面したテーブルに腰をおろし、文庫本のページを繰り始めた。 特に急ぎの用事はないらしい。 あれはフレンチ袖というんだろうか。薄手のシャツブラウスから しなやかに伸びている腕、本のページを繰る清潔で綺麗な細い指。 時折、本のページから視線を逸らし、ホテルの庭を眺める横顔。 その姿に、半ば自失したように見とれながら、俺は そこで30分ほど迷っていた。 彼女に声をかけたいんだが、どうしてもその勇気が湧いてこない。 彼女が作っている その美しい光景の中に入っていく勇気なんて、俺でなくても容易に奮い起こせるものじゃないだろう。 勇気を持てずにいた俺に行動を起こさせたのは、彼女がホテルの庭ではなく、ロビーの壁に掛かっていたアンティークの時計に視線を投げた時。 彼女はどこかに行って、誰かと会う約束をしているのかもしれない――という考えが、俺の頭を掠めた時だった。 焦慮としかいいようのないものに急きたてられて、俺は、隠れるように腰をおろしていた椅子から立ち上がったんだ。 「き……昨日はどうも」 彼女が着席しているテーブルの脇に立ち、俺は、実に全く芸のない言葉を口にした。 本当に芸がない。 「はい? あ……いえ」 彼女は、俺が誰なのか、すぐには思い出せなかったようだった。 それはそうだろう。 俺が彼女と話していたのは ほんの数秒。 おまけに、俺は彼女と違って、人の印象に残るような男じゃない。 俺は“冴えない”男。 “冴えない”というのはつまり、目をみはるような美形でもない代わり、目を背けたくなるほど醜悪でもないということだ。 詰まらない男ということ、取るに足りない男ということだ。 でも、彼女は思い出してくれた。 「ペットボトルはしかるべき場所に収まったんですか?」 彼女が やわらかく微笑して、それから小さく首をかしげる。 「あ……ああ」 どう見ても10近く年下の子供相手に何を緊張してるんだか、俺の声は、そんな短いセリフ(?)を言うだけなのに震えていた。 だが、とにかく、今はなんとか会話を続けて、ここを立ち去らずに済むようにしなきゃならない。 この世に生まれてから20数年。 これほど自分の脳細胞に活動を強いたことは、未だかつてなかったと断言できるほど懸命に考えを巡らせて、俺がやっと口にした“会話”の端緒は、 「学校は?」 だった。 『馬鹿の考え、休むに似たり』とはよく言ったもんだ。 俺は突然 生活指導員にでもなったのか。 そんな野暮なことを訊いて、彼女が気を悪くしたらどうするんだ。 俺は、内心で 間抜けな自分を怒鳴りつけることになったんだ。 だが、幸い 彼女は気を悪くしたような様子は見せず、なめらかな口調で答えてくれた。 「行ってないんです」 と。 「……」 俺は、悪いことを聞いてしまった――んだろうか。 この歳(どう見ても10代半ばだ)で学校に行ってないなんて、この国ではあまり自然なことじゃない。 が、彼女の口調には悪びれた様子が全くなかった。 ということは、彼女は義務教育は終えているということなんだろうか。 そんなことを考えてから、俺は、ここが静養地・療養地にも適した土地だということを思い出した。 確か、ここで病気療養していた少女との恋愛小説を書いた作家がいるとか何とか、ホテルの部屋にあったリーフレットに書いてあった。 「こ……ここには療養か何かで?」 「病気療養しに来ているように見えます?」 「……」 俺は多分、またしても馬鹿なことを言った。 でも、彼女は、俺の馬鹿なセリフに楽しそうな微笑を返してくれた。 きっとわざと冗談を言ったんだと思ってくれたんだろう。 笑顔が滅茶苦茶 可愛い。 「いや。細いが健康そうだ」 「ええ」 頷いて、彼女が、目を通していた本のページを閉じ、俺に向かいの席を指し示してくれる。 俺は胸中で、『やった!』と快哉を叫ぶことになった。 「来週の土日、似たような人たちがたくさん来ますよ。このホテルで、国内外の有名パティシエを集めてスイーツフェアが開催されるんです。甘党の女性陣で予約がいっぱいだそうですから。僕は、少し早く来たんです」 「あ、じゃあ、君はパティシエ志願なのか?」 俺がそんなことを訊いてしまったのは、言い訳をするわけじゃないが、学校に行っていないのなら、人は仕事をしているはずだという決めつけがあったからだったろう。 自分は、そのどっちもしてないっていうのに。 「食べる方専門です」 彼女は首を軽く横に振った。 彼女の肩の上で、やわらかそうな髪が揺れる。 そんな、何ということのない仕草にも光がまとわりついているように見える。 彼女は本当に輝いていた。 反して、俺は、姿や所作で人の心を捉えることのできない男。 せめて言葉でと思うのに――。 「そ……そうか」 その先の言葉を、俺は思いつけなかった。 ケーキの話でもできたなら そうするところだが、あいにく俺が知っているケーキの名前はショートケーキとモンブランくらいのもの。 俺は、会話が続かないことに焦りを感じていた。 だが、彼女は見ているだけで目の保養になる。 陶然とした気分で目の保養をしながら、俺は、『こんな美少女を連れていたら、俺を馬鹿にしている腐れ縁の悪友共も俺に一目置くようになるかもしれない』なんてことを考え始めていた。 腐れ縁の悪友共というのは、俺の高校の同級生たちだ。 俺が通っていた高校はクラス替えというのがない学校で、その中でも特に俺がいたクラスはやたらと団結心が強いクラスだった。 高校を卒業したあとも、3ヶ月に一度は、近況報告という名の世間話をする会合を開いている。 俺はあのクラスにあまり馴染めていなかったと思うんだが、そんな俺にも毎回誘いの連絡が入るんだ。 クラスメイト全員――都落ちした奴等にも――毎回声をかけているらしいから、幹事が俺を誘ってくれるのは、ほとんど義務感からのことなんだろう。 卒業から5年が経った今でも、毎回7、8人はメンバーが集まる。 その会合に、俺は、『他にすることがないから』という素晴らしい理由で頻繁に顔を出していた。 決して奴等に会うのが楽しいわけじゃない。 ただ、その会合に出ていないと、今の俺の生活じゃ、本当に外界とのつながりが切れてしまいそうだから、 奴等は、金もないくせに、まともにガッコーに行ってることや真面目に働いていることが自慢らしくて、いつも俺より偉そうにしている。 遊んでいても暮らしに困らない俺の方が、よほど羨まれていい存在だと思うのに。 そんなに学生だの会社員だのっていう肩書きには価値があるものなのか? 今の世の中、銀行口座に金があることの方が、ずっと確かな身分証明になるものだろうに。 ――と、そう思っているのに、その考えを口にできないところを見ると、俺はやっぱり自分が何もしていないことに引け目を感じているのかもしれない。 いや、そんなはずはない――と、俺が首を横に振りかけた時、会話を形成できずにいた俺に、彼女が救いの手を差しのべてくれた。 |