「あなたはスイーツフェアにいらしたのじゃなさそうですね。観光ですか?」
嫌な考えに囚われかけていた俺は、彼女が差しのべてくれた救いの手に、一も二もなくすがりついた。――かなり、無思慮に。
俺は、よりにもよって、
「これからの人生をどう生きようか、静かなところで考えるために来たんだ」
と、彼女に“本当のこと”を言ってしまったんだ。
言葉を発した途端に後悔して、俺は自分の舌を噛んだ。
それは とてつもなく変な答えだったと思うのに――彼女は笑わずに、真顔で、
「大事なことですよね」
と言って頷いてくれた。
本音を言えば、『そんなことを真面目に思い悩んでいるなんてカッコ悪い』と、今時の子供は考えるものだと俺は思っていたんだが。

だが、彼女には、俺を馬鹿にしているような気配は微塵もなくて――やっぱり、これだけ綺麗な子だと、そこいらに転がっている中高生なんかとは考えることも違ってるんだろう。
そんなふうに考えて、俺は得心した。
そして、こういう稀有な人間は、どういう考えでその人生を生きているのかと、興味が湧いてきたんだ。
俺が、どう少なく見積もっても7、8歳は年下だろう彼女に、
「理想的な人生ってのは どういうものだと思う?」
なんてことを訊いたのは、彼女がどういう生き方を良しとする人間なのかを知りたいと思ったからだった。
俺を迷わせているその問題に、彼女はどう対処しているのかを。

「いい大学を出て いい企業に勤めて社会的地位を得ることか、幸せな結婚をして 良き家庭人になることか、大きな夢を叶えるために努力することか――」
俺のアタマで思いつく“理想”といえば、そのくらいのもんだ。
だが、どんな人間も、突き詰めて考えれば、その3つのどれかを人生の目標にしているんじゃないだろうか。

「理想って、あなたにとって? それとも世間一般的な?」
「……」
彼女が、俺が尋ねたことには答えずに反問してくる。
俺は答えに窮することになった。
つまり、俺は、そんなことも考えずに、その質問を彼女に投げかけたわけだ。
無責任にも。いや、いい加減なことに。

「あなたにとって理想的なら、誰に何と言われようと、それがいちばん素晴らしい人生だと思いますけど」
「その理想がないんだ」
ほとんど何も考えず反射的に そう答えてから、俺は気付いた。
“俺にとっての理想”がないから、俺はそんな問いかけを口にすることができたんだ。
だから、俺の言う“理想”は俺個人の理想ではなく、世間一般で言うところの理想なんだろう。
その理想を実現して、俺は人に羨ましがられたい――俺は、あいつらに見下されたくない――んだ。

彼女がかすかに首をかしげる。
「それは困りましたね」
俺は彼女に、情けない“大人”だと思われたのかもしれない。
だが、俺は、自分を弁護する論理も、自分を飾る詭弁も持っていなかった。
それが今の俺なんだ。
彼女は――この綺麗な“子供”はどうなんだろう?

「君にとって、君の理想の人生は」
それが知りたい。
「僕ですか?」
彼女は、一瞬 迷った――ように見えた。
でも、それは、俺みたいに堂々と人に言える理想を持っていないからじゃなくて、その理想を他人に語っていいものかどうかを迷ったような感じだった。
そして、彼女は、結局、答えることにしたらしい。
彼女の“理想の人生”がどんなものなのかを。

それは、驚くべきものだった。
「この地上が平和であること。理不尽な暴力が人の心や身体を阻害することのない世界の実現。そのために僕が関与できること――かな」
「へ……」
俺は多分、その答えを聞いた時、間の抜けた顔をしていた。
だから、彼女は、
「僕、正義の味方志願なんです」
と言って、俺に微苦笑してみせることになったんだ。

俺は何を言われたのか、よくわからなかった。
つまり彼女は、ケーキの好きな正義の味方志願――なのか?
なんだ、それは。
そんな途方もない理想を語ったのが これほどの美少女でなかったら、俺は即座に『この人間は馬鹿だ』と決めつけていたに違いない。
しかし、こんな綺麗な子が、本気でそんな馬鹿げた夢を見るはずはない。
そんな叶いもしない夢を夢見る必要はないじゃないか。こんなに綺麗な子が。

だから、俺は、彼女が口にした“理想”の意味を懸命に考えた。
言葉通りではない何かが、彼女の発言には あるはずだと思って。
そうして辿り着いた答えが、
「君はボランティア志願か何かなのか?」
というもの。
彼女は、縦に首を振ることも横に首を振ることもしなかった。
ただ優しい印象の微笑を浮かべただけ。

「ということは――君がそんなことを考えていられるってことは、君がいい家に生まれて、金に不自由なく暮らしていられて、進学や就職を強要されることもない、結構な身分の人間だから――?」
うん。そういうことなんだ。おそらく。
彼女が言っているのは、そういうこと。
彼女は、使う言葉が、俺たち一般人とは少しばかり違うんだろう。

俺の解釈・推察に、だが、彼女は今度は軽く首を横に振った。
「僕、自分の家はないんです。両親がいないので」
「――」
彼女は本当に俺を呆然とさせるようなことばかり言う。
彼女が尋常でないのは、その姿ばかりではないらしい。
それはどう考えても、10代半ばの少女が全く悲愴感なしに言うセリフじゃないだろう。
彼女が そんな大変なことを 全く大したことではないように言うということは――。

「ああ」
彼女が告げた言葉の意味を再び俺なりに考えて、やがて俺は再び得心した。
つまり、彼女は多分 俺と同じ境遇の人間なんだ。
親はなくて、だが、金はある。
親の遺産か何かで優雅に暮らしていける身分。
だから彼女は、夏休みでもない平日に、こんなところでこんなふうに一人でいるんだ。
そうと知って、俺はほっとした。
なんだ、学校にも行ってなくて、働いてもいない奴なんて、いくらでもいるんじゃないか――と。

それにしても。それならば。
一生という時間を、こんな美少女とのんびり優雅に暮らしていられたら、どんなにいいだろう。
それこそ近代以前の特権階級か何かみたいに。
それでいいじゃないか
必要がないのに、無理に働かなくても。
体面のために社会的な立ち位置を手に入れようとしなくても。
稀に見る美少女と共に営む貴族のように優雅な暮らし。
もし そんな“人生”が実現したら、誰もが俺を羨むことしかできないだろう。

それでも、たとえば子供ができたりしら、親の遺産を食い潰しているわけにもいかなくなって、俺みたいな怠け者でも『児孫のために美田を残したい』という気持ちになるんだろうか。
してみると、なるほど結婚というシステムは、人間に勤労意欲や生産意欲を持たせるのに最高に有効な手だ。
最初に結婚制度を考えた奴は、おそらく狡猾な支配者だったんだろう。
そうやって民衆に上昇志向や欲を持たせ、働かせて、その上前をはねようとした施政者たちだ。
でも、彼女が俺の妻になってくれたら、俺だって、そんな奴等の目論見を承知していても、真面目に頑張ろうという気になるだろう。
そうなったら、どんなにいいか。
そうなったら、どんなにいいだろう――。

俺がそんな夢想に浸っていたら、文字通り夢見心地の俺に、彼女は不思議そうな眼差しを向けてきた。
そして、テーブルの脇に置いていた本を手にして、席を立とうとする。
「あ、僕、今日は午後から堀辰雄文学記念館に行く予定なので」
彼女がさっき時計に目を向けたのは、そういうことだったらしい。
「一緒に行ってもいいか」
慌てて現実世界に戻ってきた俺は、ほとんど条件反射のように、彼女に図々しい申し出をしていた。

「え?」
彼女が、驚いたように その瞳を見開く。
それは唐突な申し出だったろう。
昨日――いや、ちゃんと知り合った(?)のはたった今――という相手に、そんなことを言われたら、誰だって驚く。
俺がそんなことを言ったのが、誰もが時計に振り回され、就労就学義務に取りつかれている都会の真ん中だったなら、俺はよからぬことを企んでいる不審人物と怪しまれていたかもしれない。
だが、ここは、時計を気にすることが最も野暮な行為とされる静かな避暑地。
誰もが気ままに、行きずりの出会いを楽しむことのできる場所だ。
だから俺の申し出はさほど突飛なことではないはず。
ないはずだと、俺は必死に自分に言い聞かせた。
自分を納得させたって、そうすることには何の意味もないんだが。

幸い俺の申し出は、彼女に、少なくとも よからぬ下心ゆえのものとは思われずに済んだようだった。
「他にご用がないのでしたら、一緒に行ってくださる方ができるのは嬉しいですけど……」
少々ためらいがちにではあったが、彼女は俺にそう言ってくれた。
彼女に連れはいないらしい。
特に誰かと約束をしているわけでもなく、本当に一人でここにいるんだ。
親も恋人も友人も伴わずに、一人で。
その事実は、俺を力づけた。

「ぜひ」
気負い込み、身を乗り出すようにして、俺は彼女に深く頷いてみせた。
で、そう言ってしまってから、俺は不安に囚われることになったんだ。
堀辰雄なんて、俺は全く興味ないし、当然のことながら知識もない。
かろうじて小説家だとわかるくらいのものだった。
堀辰雄ブンガク記念館だかゲイジュツ記念館だかは知らないが、そんなところに一緒に行って、馬鹿なことを口走りボロを出してしまったら、俺は彼女に『育ちが違う』と思われてしまうんじゃないだろうか。

「国文学には造詣が深いのか」
不安を隠して恐る恐る尋ねると、彼女は少し苦笑の勝った笑みを浮かべて、首を横に振った。
「いいえ。建物もお庭も綺麗なそうなので。著作は今 慌てて読んでいるところです」
そう言って彼女が俺の前に差し出して見せてくれたものは、まぎれもなく堀辰雄の文庫本。
タイトルは『風立ちぬ』となっていた。

彼女の その答えを聞いて、俺はほっと安堵の息を洩らしたんだ。
それが本当のことでも謙遜だったにしても、彼女は俺の無知無教養を蔑むようなことはしないでくれるに違いない。
そう信じて、俺は図々しく彼女に同道させてもらうことにした。
彼女の名は瞬といった。






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