堀某のブンガク記念館は、俺たちが泊まっているホテルから歩いて40分くらいのところにあるという話だった。 タクシーを呼ぶこともできたし、この界隈では貸し自転車なんてものもあるそうだが、俺たちは目的地まで歩いていくことにした。 「緑が綺麗ですから、ゆっくり歩いて行きましょう」 と瞬が言ったから。 そして、『ゆっくり』歩いて行けば、その分 瞬と一緒にいられる時間が長くなると、俺が思ったから。 ホテルからブンガク記念館への道は、歩道と車道の区別もあやふやな一車線の狭い道だった。 自転車の往来は結構多かったが、車はほとんど通らない。 道の両脇は白樺やらブナやらの林になっていて、空気は初夏の緑の匂いがした。 散歩にはもってこいの道だと思うのに、歩いてる人間もあまりいなかった。都会の雑踏に比べれば。 そして、その道を歩いていて出会う人間は、誰もが――本当にただの一人の例外もなく、誰もが――瞬を振り返った 中には不躾なくらいの凝視を投げかけてくる者もいた。 行き過ぎる時に、瞬にみとれて転びかける者もいた。 ブンガク記念館でも、多分、瞬が館内にいた時間帯、あの記念館にいた客たちは、堀辰雄の原稿だの手紙だのより瞬を見ていることの方が多かったに違いない。 若い男はもちろん、女も例外じゃなく、第一線を引退して悠々自適の生活をしているような老紳士や上品そうなご婦人も――本当にただ一人の例外もなく、老いも若きも、男も女も、誰もが瞬に目を奪われていた。 そりゃそうだろう。 瞬は長く生きていれば誰でも一度は会えるっていうレベルの美少女じゃない。 瞬は まさに奇跡そのものとしか言いようのない美少女で、彼女の姿を見ることができるということは、それこそ奇跡との邂逅だ。 いや、もしかしたら同レベルの美少女は世界中を探しまわれば幾人かはいるのかもしれない。 ただ瞬は、身にまとっている雰囲気や発散している生気が、普通の人間のそれとは全く違うんだ。 それを何と表現したものか――。 瞬には、自分が生きていることを心の底から喜んでいるような輝きがあった。 そんな瞬と一緒にいて、俺は誇らしい気分になった。 あんまり人が振り返るんで、瞬の隣りにいる俺は、何というか――自分まで いい男になったような錯覚を覚えた。 瞬は自分に注がれる視線に気付いていないのか、あるいは他人の注目を浴びることに慣れているのか、全くそれを鼻にかけた様子はなかった。 これだけの美少女なのに、気取ったところが全くなくて、礼儀正しく、人当たりがよくて親しみやすく、物腰もやわらか。 俺は、自分が彼女の横に立つ光栄に浴していることを、信じてもいない神に感謝した。 瞬には係累もないらしく、生きるためにしなきゃならないこともないらしい。 本当に瞬が俺のカノジョになってくれたなら、誰もが俺を羨むことになるに違いない――と、俺の夢想は広がるばかりだった。 「まだ、こっちにいるんだろう。明日も付き合わせてもらえたら嬉しいんだが」 その日の夕刻、俺が瞬にそんな図々しいことを言えたのは、稀有な美貌を凌駕する瞬の親しみやすさのせいだったろう。 瞬が、優しい仕草で首をかしげ、俺を見上げる。 「それは僕も嬉しいですけど、本当に他のご用はないんですか? ご迷惑なんじゃ……。あの、もしかして僕を心配してくださってます? 子供が一人で――って」 『他にご用』なんてものはない。 俺は目的もなしにここにやってきて ぶらぶらしている、ただのグータラだ。 だが、用がないことが恥ずかしくて、俺は見えを張った。 「もともと気の乗らない用事だったから、キャンセルすることにした。君を見ている方が、人生の思索を深められそうだし」 我ながら よく言う――とは思ったが、瞬と一緒にいられる時間を持つためになら、俺は、どんな気障な言葉も、どんな無様な言葉も、平気で言ってのけることができただろう。 瞬と一緒にいたいんだ。 瞬と一緒にいるのは、本当に心地良い。 「そんなことは……」 はにかむように そう呟いて、瞬は俺に腰を折ってきた。 「ありがとうございます」 どうやら俺は、瞬の中で、“家から離れたところに一人きりでいる未成年の身を案じている年長者”ということになっているようだった。 いや、そうでなかったとしても――たとえ瞬の好意的解釈や礼の言葉が社交辞令にすぎなかったとしても、俺はそれでもよかったんだ。 不躾で強引な男と思われてたって構わない。 半日 瞬と一緒にいて、俺の胸中では『瞬を手に入れたい』という思いが、これ以上空気を入れたら破裂してしまいそうな風船みたいに膨れ上がっていた。 その願いが叶ったら、俺の人生は変わる。 自分のためには何かをしようという気になれない俺でも、自他共に求める ぐうたらで怠け者の俺でも、瞬のためなら、何かをしようという気になれるだろう。 どんな嫌なことも我慢できる。瞬が俺のものでいてくれるなら。 苦労を買ってすることもできる。瞬を俺のものにするためになら。 瞬は東京から来たと言っていた。 スイーツフェアだか何だかが終わったら、彼女は東京に帰ってしまうだろう。 俺が帰る場所も東京には違いないが、人であふれたあの町では、約束なしで俺が瞬に再び巡り会うことは ほぼ不可能なことだ。 最低でも 東京での再会の約束を交わせるほどの親密さを瞬との間に築いておかないと、俺は再び瞬に会うことはできないんだ。 最低でも 東京での再会の約束を交わせるようになっておかなければ。 今はまだプロポーズは無理としても。 |