「どうしたの、浮かない顔ね」 ひと月前に、アテナの聖闘士たちがハーデスの冥闘士たちを迎え撃ち、熾烈な戦いを繰り広げた場所。 その際に崩れた神殿の跡。 聖域の片隅にある その場所に 瞬が佇んでいたのは、ひと月前の戦いの思い出に浸るためだった。 僅か ひと月前の戦いの記憶を“思い出”と表するのは、少々大袈裟かもしれない。 そして、瞬の心を捉えているものは、ひと月前の出来事の記憶ではなく、今現在の気掛かりだったかもしれない。 いずれにせよ、瞬の心は その戦いの記憶があるせいで沈んでいた。 「アテナ……」 「何か悩み事?」 ここはアテナの来るような場所ではない。 にもかかわらず、アテナがここにやってきたということは、アテナが彼女の聖闘士の気掛かりを感じとり、その気掛かりを払拭すべく、わざわざここまで出向いてきてくれたということだった。 こういう人だから、瞬は彼女を信じることができ、また、好きなのだった。 アテナに尋ねられ、だが、瞬は返答に迷ったのである。 自分が抱えているこの気掛かりは、はたしてアテナを煩わせるほどの重大事なのだろうかと。 だから、瞬がアテナに自分の気掛かりを語ったのは、おそらくアテナに その気掛かりを消し去ってほしいと願ってのことではなかった。 瞬がアテナに自らの気掛かりを打ち明けたのは、わざわざこんな場所まで彼女の聖闘士のために出向いてきてくれたアテナの行為と厚意を無にすることはできないという思いだった――おそらく。 「あの……ハーデスの――冥闘士の中に一人、気になる人がいて……」 「気になる人? 恋でもしたの?」 「は……?」 なぜそういう発想になるのかと、アテナの反問を聞いた瞬は、軽い目眩いを覚えたのである。 アテナは少しばかり人の世に染まりすぎ、俗っぽくなりすぎているような気がしてならない。 彼女のそういったところが、本来は高潔至高の神を、アテナの聖闘士や人間たちに親しみやすい存在に感じさせていることもまた、紛う方なき事実ではあったが。 瞬は我知らず頬を染め、きっぱりとアテナの戯れ言を否定したのである。 「じょ……冗談はやめてください。相手は冥闘士ですよ。そんなんじゃありません!」 「あら。だって、さっきまでの あなたの様子は恋する人を思っている乙女のようだったわよ。ぼんやりと空を見詰めては、悩ましげに溜め息をついて」 アテナが にこにこしながら、彼女の聖闘士を恋する乙女呼ばわりする。 本気なのか冗談で言っているのかの判別が難しいところが、アテナは 勤勉だけが取りえの部下は、所詮彼女には勝てないのである。 瞬は脱力し、そして、その顔に力無い笑みを浮かべることになったのだった。 「僕は彼と何度も拳を合わせています。初めて会ったのは、もう2年も前だったと思う。1ヶ月前にもここで戦いました。でも、勝負がつかなかったんです。いつも勝負がつかない……」 「瞬が2年がかりで倒せないなんて、その冥闘士、よほど強いのね」 「おだてないでください。僕は一介の青銅聖闘士ですよ。彼は……彼は強いことは強いんですが、僕が勝てない相手ではないと思うんです。ただ僕は 彼を倒すことにためらいを覚えてる――んだと思う……」 「ああ、それはやっぱり恋よ」 「……」 瞬の女神が確信に満ちた口調で断言する。 瞬の唇からは、恋の溜め息とは全く意味合いの違う溜め息が洩れることになった。 真顔で冗談を言うアテナに――もちろん、それは冗談に決まっている――どう対処したものかと悩んだ末に、瞬は結局、女神の意見を無視するという暴挙に出たのである。 「ハーデスの冥闘士たちは、人の世は滅んでしまうべきだというハーデスの考えに賛同して、滅びのために戦っている者たちでしょう。多分、その“滅んでしまうべきもの”の中には、彼等自身も含まれている。彼等の中には、死後の世界での高い地位を望んでいる間違った野心家もいるかもしれないけど、その多くは、現在の人間界に希望を持てなくて、死と滅亡にこそ価値があると考えている者たちのはずです。なのに、彼は、生きたい、滅びたくないって叫んでいるような気がするんです。そういう小宇宙を感じる。僕のチェーンも彼を倒しちゃいけないって言って、彼の前では動きが鈍るんです」 「チェーンのせいにするのは責任転嫁というものよ。あなたのチェーンはあなたの心でしょう。彼はどんな人なの。どんな星を背負った冥闘士なの」 「え……」 問われて、瞬は答えに窮した。 昔アジアにあった某国の武人が「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と唱えたというが、瞬は実は自分の“敵”たちがどういうものなのかが よくわかっていなかったのである。 「冥衣って、みんな同じ暗い 「まあ、それは気になるわねえ」 意味ありげに頷いてみせるアテナの声と言葉とに、からかいの響きを感じて、瞬は一度きつく唇を引き結んだ。 「だから、そんなんじゃありませんってば!」 「あら、私は何も言ってなくてよ」 向きになる瞬の様子を楽しむような笑顔を見せてから、彼女はふいに真面目な顔つきになった。 「たまにいるの。アテナの聖闘士になる星のもとに生まれたにもかかわらず、ハーデスの冥闘士として選ばれてしまう人間が。私たち神は、人間界に実在するために人間の身体を借りるから、たとえば、アテナの聖闘士がハーデスの人間としての器に選ばれたりすることも、可能性としては皆無ではないわ。冥界にアテナの聖闘士がいないとは、誰にも言いきれないことなのよ」 「アテナの聖闘士になるはずの者がハーデスの冥闘士に……?」 そんなことがあり得るのだろうか。 ハーデスの冥闘士である彼が、アテナの聖闘士でもあるということが? もし本当にそんなことがあるのだとしたら、それは、ハーデス軍に組み込まれたアテナの聖闘士にとっても、アテナのもとで戦う彼女の聖闘士たちにとっても、この上ない不幸である。 そんなことはあってはならない――と、まず瞬は思った。 そして、次には、もしそうだったら どんなにいいだろう――と。 アテナに その可能性を示されて、瞬は初めて自分の気持ちがわかったような気がしたのである。 自分は彼と敵対したくないのだ。 瞬の心は、彼が自分の敵ではなくなることを望んでいた。 もし彼がアテナに敵対する者でなくなったら どんなにいいだろう――。 一瞬 夢見るような眼差しになったアンドロメダ座の聖闘士を、アテナが やわらかな微笑を浮かべ、見詰める。 「ハーデスとの聖戦が始まっているのに、未だに持ち主の現われていない聖衣がいくつかあるわ。水瓶座、琴座、白鳥座――。あなたの気になっている人は、その中のどれかを受け取るべき人なのかもしれなくてよ」 「彼がアテナの聖闘士――」 彼と敵対し合うのではなく、共にアテナのために、同じ希望のために、彼と力を合わせて戦うことができたなら、どんなにいいか――。 瞬の胸中に生まれた希望は、瞬の心を高揚させた。 |