彼は相変わらず敏捷で、瞬のチェーンはなかなか彼を捕えることができなかった。
あんなに重たげな冥衣を身に着けているのにどうしてと、瞬は、自分のチェーンが彼を捕まえ損ねるたびに唇を噛みしめることになったのである。
瞬は、彼に対して生身の拳を使いたくはなかった。
チェーンの方が、生身の拳より彼を傷付ける可能性が低いという理由もあったが、それよりも。
凍気を操るはずの彼が、今日は まだその技を繰り出してきていなかった。
彼は彼の優位と余裕を瞬に見せつけるために わざとその力を使わずにいるのかもしれなかったが、現実に彼はその力を使う気配を見せないのであるから、瞬は自分だけが さっさと上位レベルの戦闘方法に移行するわけにはいかないと思っていた。
そんなことにこだわっているから、いつまで経っても彼との決着がつかないのだということはわかっているのだが――それが瞬の戦闘スタイルなのだから仕方がない。
こればかりは、瞬自身にも変えられるものではなかった。

「いつもと変わらんぞ」
それまで いともたやすくチェーンをかわしてみせていた彼が、瞬のチェーンにわざと捕まり、見せつけるようにその呪縛を解いて、瞬を揶揄してくる。
瞬は、彼を睨みつけた。
「それはあなたが鈍感なだけだよ。僕はいつもより――」
いつもより勝ちたい気持ちが強い――。
それは紛う方なき事実だったが、今の瞬の中では、彼を傷付けたくないという気持ちもまた、いつもよりずっと強まっていたのだ。
その二つの思いで力が相殺されて、彼には 瞬の攻撃がいつもと変わらないように感じられているのだろう。
相反する二つの思いのせいで、瞬は、いつもほどにはチェーンに攻撃性を持たせることもできずにいた。

瞬は、己れの非力が悔しくてならなかった。
自分にもっと力があれば、彼を傷付けることなく捕縛することは もっと容易なことであるはずなのだ。
せめて「多少 彼を傷付けることになっても、彼を捕まえることができるなら、それもやむなし」と思えるほどの冷徹さが、瞬はほしかった。
戦闘力の不足と冷徹になりきれない心の弱さ――が、もしかしたら彼に一つの可能性を示す機会を逸してしまうことになるかもしれないのである。
聖闘士が弱いということは 何という災いかと、瞬は心底から思ったのである。
できることなら瞬は、自分の胸を彼の前で切り裂いて、彼に勝ちたいと願い高鳴っている自分の心を、彼に見せてやりたかった。

瞬の心は、それほどまでに“いつも”と違うというのに、彼はいつもと同じように、二人の戦いを無意味に長引かせ、遊んでいるようにさえ見える。
彼を思う自分の心だけが空回りしている現実を、瞬は認めないわけにはいかなかった。
それは仕方のないことで、当然のことでもあるのだが、自分の思いが彼に通じないことに、瞬はやるせなさのようなものを感じ始めていたのである。
自分の心が変わっても、世界は――自分以外のすべてのことが――何も変わっていないという事実に。

“いつも”と違っているのは、だが、自分の心だけではない――何かが違う――と瞬が感じたのは、瞬が彼と拳を交え始めてから かなりの時間が経った頃。
彼と瞬以外の者たちの戦いはほとんど決着がついてしまったらしい。だから、辺りはこんなに静かなのだ――という考えを瞬が抱いたのは、ほんの一瞬のこと。
アテナの聖闘士とハーデスの冥闘士の戦いは、終結など迎えてはいなかった。
ただ彼等は皆、空を見上げて彼等の戦いを中断していたのだ。
氷河の姿ばかりを追っていた瞬の目と心が、その異変に気付くのが遅れてしまっただけのことだった。

いつもと違う、その“何か”は、瞬の心の中ではなく、瞬の心の外で起こっていた。
途轍もなく強大な小宇宙が戦場を覆い尽くそうとしている。
最初、瞬は、それをアテナの結界が力を増しているのだと思った。
瞬の推察は、半分が当たり、半分は違っていた。
それは、瞬が見知っているアテナの小宇宙だけでできている異変ではなかった。
もしかしたら――おそらく――ハーデスの小宇宙も関わっている。
二柱の神が、それぞれの小宇宙でせめぎ合い、この異変を起こしているのだ――おそらく。
アテナの聖闘士としての戦いを始めてから3年、こんな異変を目にするのは、瞬はこれが初めてのことだった。

人の世の存続の是非を決めるのは人間たちである――というのが神々の基本的な考えで、アテナとハーデスが聖闘士と冥闘士の戦いに直接関与してくることはなかった――これまでは。
そのアテナの小宇宙が戦場を覆い尽くそうとしている。
そして、ハーデスの小宇宙らしき もう一つの力が、それを押しとどめようとしている。
瞬には、今 聖域の空で起こっている異変はそういうものであるように感じられた。
その力の強大さ――。
アテナの聖闘士とハーデスの冥闘士たちが戦っている聖域の上空は、二つの強大な力のぶつかり合いのせいで歪んでいた。
瞬は、他の聖闘士や冥闘士たちと同じように――彼等よりかなり遅れて――戦いの手を止め、異様な様相を呈している空を見上げることになったのである。

昼間だというのに、空のところどころには星が見えた。
そうかと思うと、目がくらみそうなほど強い光が、細く鋭い線を描くように空を割ってみせる。
僅かばかり上空に浮かんでいた雲は、神々の力によって完全にいずこかへ吹き飛ばされていた。
そういった、天変地異ともとれるような現象が、全く音もなく、瞬たちの頭上で繰り広げられているのだ。

「すごい……」
瞬がチェーンを操る手を止めても、彼は攻撃してこなかった。
彼が瞬の隙を突いてこなかったのは、彼もまた天空の異常事態に驚いてたから――というより、瞬が攻撃をとめたからだったろう。
彼自身は、空にちらりと一瞥をくれたあとは、瞬の姿だけを視界に映していた。

「ハーデスは……人間界に直接 力を及ぼすことにしたの?」
「そんなはずはない」
「でも、これは――」
届くはずがないことはわかっていたのだが――むしろ、わかっていたからこそ――瞬は、その手を空に向かって差しのべた。
その瞬間、瞬の手は何ものかに強く掴みあげられてしまったのである。
そして、瞬の手が身体ごと、神々の作った時空の歪みに引き込まれそうになる。

「わあっ!」
「ピンクのっ!」
チェーンを投じて、我が身を大地に繋ぎとめることも許されなかった。
瞬の身体の自由は完全に 歪みを作る巨大な力に奪われてしまっていたのだ。
まだ歪んだ空に囚われていない方の瞬の手を掴み、瞬の身体をこの世界に引き留めようとしてくれたのは“彼”だった。
こんな時だというのに――瞬は、初めて触れる彼の手の感触に気が緩み、自分を引き込もうとする異様な力に抗することを一瞬 忘れてしまったのである。






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