「あ……」 アテナの聖闘士を、青い瞳が見詰めている――ような気がした。 ぼんやりしている意識を覚醒させるために瞬が上体を起こした時には既に、その青い色は 瞬の視界の外に消え去ってしまっていたが。 代わりに瞬の視界を覆ったものは、白とも黒ともつかない色、光とも闇とも言えない半透明の何か――だった。 そこには、鈍色の冥衣をつけた彼の姿の他には何もなかった。 瞬と彼は、無限のようでもあり、閉鎖された空間でもあるような、漠として捉えどころのない場所に二人きりでいた。 意識は完全に通常の状態に戻ったと思うのに、視界がぼやけているせいで、自分が夢か幻の中にいるような気がする。 その場で確とした形を持っているものは、彼 「ここは……どこ……」 ここはどこなのかと問うよりも、これは何なのかと問う方が正しいのかもしれないと、瞬は、呟きめいた問いかけを口にしてから思ったのである。 「二柱の神の小宇宙が空間を歪めてしまったんだな。いや、歪められたのは空間だけではなく、時空なのかもしれない」 いつもと変わらぬ口調で――抑揚のない重い口調で――彼が答えてくる。 彼の声にも態度にも いつもと変わったところを見付けられないせいで、瞬は、彼がこの事態をどう思っているのか――不安に思っているのか、恐怖に怯えているのか、あるいは全く何も感じていないのか――がわからなかった。 そして、彼の気持ちがわからないことが、瞬を迷わせたのである。 彼がこの事態に恐れ怯えているのなら、瞬は彼を励まし落ち着かせてやればいいし、彼が現状を楽観的に捉えているのなら、瞬は安心して怯えていられただろう。 だが、彼の気持ちがわからないのでは、瞬は 自分が彼にどういう態度を示せばいいのかを迷うことしかできない。 そして、瞬のその迷いは、瞬に不安の表情を浮かべさせることになってしまった――らしい。 「へたをすると、永遠に出られないぞ」 瞬の不安をからかうように、彼は不吉な推測を口にした。 殊更 深刻そうにではなく、いつも通りの感情の読み取れない声で。 彼にそういう言い方をされると、瞬も、つい いつもの負けん気が出てくる。 「アテナが助けに来てくれるよ!」 ハーデスの冥闘士などに負けてたまるかという思いが、瞬の口調を噛みつくようなそれにした。 挑みかかるような目になった瞬に、彼が、唇の端を歪めるだけの冷ややかな笑みを返してくる。 「“希望”は、アテナの好きなテーゼの一つだったな」 彼の冷笑は、『今 ここで“希望”を持つことは愚かだ』と言っているのか、『そもそも希望というものを抱いて生きていることが無意味だ』と言っているのか――。 いずれにしても、瞬は、“希望を持つこと”を軽んじているような彼の態度が、癇に障ってしまったのである。 彼の言う通り、“希望”はアテナの掲げる重要なテーゼであったから。 「希望を持つことは、そんなにおかしなこと? あなただって、希望があるから戦ってるんでしょう! 希望を持っていない人は、最初から何もかもを諦めて、何かのために戦うこともしないよ!」 瞬は、ハーデスのもとで戦う者の矛盾を衝いたつもりだったのだが、彼はその矛盾を以前から承知していたようだった。 とりたてて慌てた様子もなく、彼は、瞬の主張にゆっくりと頷いてみせた。 「確かに……希望はあるかもしれない。希望なんてものを抱かずに石のようにじっと死を待っていれば、人は失望することもなく、絶望もせずに済んで、心穏やかに生きて死んでいけるだろうという希望が」 「そんな……」 淀みもなく、迷いも感じらない彼の答えは、だが、だからこそ、瞬の心を大きく波立たせたのである。 そんな希望があるものだろうか。 「石のように ただじっと死を待ってるだけなんて、そんなの寂しいよ。そんなんじゃ、生まれてきた甲斐がないじゃない」 「寂しいと感じるのも、希望や期待や理想なんてものを持ってしまうからだ。希望は、人を苦しめるだけのものだ」 「そんなことないよ! 希望があるから、人は生きていけるんだ」 「そうして生きていることにどんな価値がある」 「なら、あなたはどうして死なないの。生きていることや希望を持つことを、そんなに無意味だって言うのなら、今すぐ、たった今、ここで死んでくれてもいいよ。僕、止めないから!」 売り言葉に買い言葉で、自分は何と愚かな挑発を口にしてしまったのか――と、瞬はもちろんすぐに自分の発した言葉を後悔した。 だが、瞬の挑発への彼の答えは、更に瞬の後悔を深くするものだったのである。 「それもいいかもしれないな。俺たちの力だけでは到底ここから出ることはできそうにないし」 彼は平然とした様子で、瞬の挑発に乗って(?)みせたのだ。 瞬は、一瞬間 呆然とした。 決して死んでほしくない人に『死んでいい』と言ってしまった自分も愚かだが、現に生きている人間が『それもいい』などと――人がそんなにも軽く“死”を口にしてしまっていいものだろうか――? 「ど……どうして、そんなことを言うの。そんなに簡単に死ぬなんて言わないで」 彼にそんな悲しい言葉を言わせてしまったのが自分だということはわかっている。 自分の軽率な発言が、彼に“死”を語らせた。 それはわかっていたのだが――わかっているからこそ――瞬の瞳からは涙が零れ落ちることになったのである。 瞬は、彼にだけはそんなことを言ってほしくなかった。 彼と拳を合わせている時、彼はいつも『生きたい』と叫んでいた――叫んでいる。 そう思ったからこそ――そう感じればこそ、瞬は、彼をアテナのもとに連れていき、彼に希望というものの価値を知らせることを決意したのだ。 それは彼にとっては 余計なお節介なのかもしれない。 だが、瞬には確かに、本当に、『生きたい』という彼の声が聞こえていたのだ。 それを否定されてしまうことは、瞬にはやりきれないほどつらいことだった。 瞳からあふれる涙を止めることができない。 瞬は、今 まさに、彼の言う通り、希望を持ったせいで悲しみ苦しんでいた。 こんなアテナの聖闘士の姿を見て、彼は彼の主張の正しいことを確信し、愚かなアテナの聖闘士を嘲笑するのだろう――という思いが、瞬の悲しみを更に深いものにする。 が、彼は、瞬の推察とは少々違う反応を示してきた。 それまで動じた様子ひとつ見せていなかった彼が、初めて感情の動きらしきものを見せる。 「聖闘士が泣くとは――」 瞬の涙を見て息を呑み、彼は、心の底から呆れ驚いたように そう低く呟いたのだ。 「聖闘士だって泣くよ! あたりまえでしょ、人間なんだから!」 彼に返す瞬の声が、少し――否、かなり――刺々しいものになる。 なぜ そんな当たりまえのことに彼は驚いたりなどするのか――。 瞬が必死の思いで告げた言葉には毫も心を動かされた様子を見せなかった彼が、何の意味も主張も持っていない(はずの)涙には驚いてみせる。 彼のその反応に、瞬の心は苛立ちのようなものを覚えていた。 否、瞬が苛立ったのは、自分の言葉の無力に対してだったのかもしれない。 「人間だから――。ああ、そういえば冥闘士になる前に、俺も泣いたことがあったような気がするな……」 「……」 彼の呟きが、瞬の苛立ちを一瞬で、嘘のように消し去る。 彼の独り言のような呟きが 瞬の胸に運んできたものは、またしても、“希望”と名付けられてしかるべきものだった。 それは、『ハーデスの冥闘士は生きている人間である』という、知識としては瞬も承知していたつもりの事実だった。 死んだ人間は戦えない――少なくとも、自分の意思を持っては戦えない。 当然のことながら、ハーデスの冥闘士は、生きた生身の身体を持っている――のだ。 ならば――彼が生きている人間だというのであれば、彼は“心”も持っているはずである。 そのはずだった。 生きているということは、自分に与えられた限りある時間を 苦しみ悲しみ喜び楽しむ――ということなのだから。 その事実、あるいは可能性が、瞬に希望を運んできた。 涙を拭い、その場でしばらく もじもじしてから、瞬は思い切って彼に尋ねてみたのである。 「な……名前、聞いてもいいかな」 「氷河だ。おまえは」 気が抜けるほどあっさりと、彼が彼の名を瞬に教えてくれる。 それだけならまだしも、彼は瞬に名を尋ねることさえしてくれた。 たった今まで、彼の冷たい態度に涙を止められずにいたというのに――瞬の胸は突然どきどきと尋常でない速さで強く大きく波打ち始めてしまったのである。 彼が瞬に名前を訊いてくれるということは、彼が、彼の目の前にいる聖闘士に対して全くの無関心でいるわけではない――ということだった。 「しゅ……瞬」 「瞬――」 震える声で瞬が知らせた名を、一度その舌の上で転がしてから、彼は苦笑とも自嘲ともつかない不思議な笑みを、その唇に浮かべた。 「飽きるくらい何度も戦ってきたのに、名も知らなかったな。俺は、おまえのことを考える時にはいつも『ピンクの』と呼んでいた」 「え……」 いったい彼は何を言っているのか――。 瞬の心臓の鼓動は、ますます強く大きく速くなっていった。 直接 拳を合わせていない時にも、おまえのことを考えることがあった――と、彼は言ってくれている。 それだけのことが嬉しくて、瞬の胸はときめかないわけにはいかなかったのである。 「ぼ……僕は、『金色の人』って」 小さな声で告白してから、瞬は自分の頬が燃えるように熱くなっていることに気付いた。 そんな自分が恥ずかしくて、自身の赤面をごまかすために、瞬は、彼の前で 殊更大袈裟に頬を膨らませてみせたのである。 「そ……そうだ。僕、いつも思ってたんだけどね。冥闘士の冥衣って、どうしてみんな同じような色なの。区別がつかなくて不便だったらないよ。氷河は金色だけど、他の人はみんな、くすんだ同じ色。僕、氷河以外の人の区別が全然できないの。あれはどうにかできないの?」 「……」 そんなことを言われても――というのが、彼の本音だったろう。 が、彼は身内の不都合の弁解はせず、逆に“敵”の不都合をあげつらってきた。 「おまえらの――黄金聖闘士もそうじゃないか」 「うん。だから、僕、黄金聖聖衣は聖衣だけ見ても、どれがどの星座のものだか区別がつかないの」 「なに……?」 瞬の素直な(?)首肯は、彼には意外なものだったらしい。 氷河が目をみはったのが、瞬にはわかった。 「そうなのか」 「うん……。あ、このこと、黄金聖闘士たちには内緒にしてね。黄金聖闘士たちが聖衣を装着している状態でなら、どれがどの星座の聖衣なのかくらい、僕にだって ちゃんとわかるんだよ」 アテナに授けられる聖衣は、アテナの聖闘士が聖闘士であることの証である。 その区別がつかないということが 極めて失礼なことだということは、瞬とて自覚していた。 だが、感情も言葉も持たず、同じ色で似たような形をしたものをどう区別すればいいのか、そもそも それは区別する必要があるものなのか――を、瞬は常々 疑問に思っていたのだ。 氷河には『黄金聖闘士たちが聖衣を装着している状態でなら、どれがどの星座の聖衣なのか、ちゃんとわかる』と見えを張ってみせたが、たとえば、魚座の黄金聖闘士が牡牛座の黄金聖衣を装着して自分の前に立つことがあったなら、自分は彼の身につけている黄金聖衣を魚座のものと疑いもなく信じるだろうという確信が、瞬の中にはあった。 氷河が呆れたように肩をすくめたのは、“黄金聖衣に対して失礼な”瞬の告白より、『黄金聖闘士たちには内緒に』という、瞬の要望のせいだったのかもしれない。 告げ口などと、そんなせこい真似をしてどうなるのか――と、彼は思ったようだった。 しかも、相手は敵方のリーダー格たちではないか――と。 「まあ、告げ口する機会もないだろうが。俺も、あいつらと戦っているより、おまえと戦っている方が楽しい。わざわざ あのきんきらきんたちの相手をしにいこうとは思わないな」 「え……」 “希望”を全否定してみせた彼が、どうしてこんなふうに次から次へと“希望”ばかりをアテナの聖闘士に与えてくれるのか。 瞬の心は『嬉しい』を通り越して、戸惑いさえ覚え始めていた。 『おまえと戦っている方が楽しい』と、氷河は言った。 死と絶望と滅びを是とするハーデスの冥闘士が、そんな気持ちを持つことがあるだろうか。 彼が本当に“死”を望み、彼が本当に“希望”を無価値だと思っているのなら、彼はそんな感情を抱くはずがない。 やはり彼はアテナの聖闘士なのだ――きっと そうなのだ。 それはほとんど確信に近い“希望”だった。 “彼はアテナの聖闘士なのだ”――。 「ハーデスの冥闘士も、本当は普通の人間なんでしょう。氷河はどうして冥闘士になったの」 その希望を揺るぎない確信にするために、瞬は彼に尋ねてみたのである。 立ち入った――詮索と言っていい その質問に、彼が答えてくれることを祈りながら。 瞬の祈りは聞き届けられた。 祈りが聞き届けられた結果、瞬が得ることのできた“答え”は、ひどく悲しいものだったが。 「ハーデスの言葉が正しいと思ったからだ。希望は苦しみをもたらすもの、人間が生きるという行為は苦しみに耐えるということ、そして、幸せになりたいという気持ちは人を不幸にする。だが、大抵の人間は心弱くて、それを求めずにはいられない。だから、人と人の世は滅び去った方がいい。人間たちのためにも、そうなるのがいちばんいいのだと思った」 それが、彼の答えだった。 淀みも迷いも感じられない彼の声音は、一瞬で、高揚していた瞬の心を固く凍りつかせた。 「そんな……。じゃあ、でも、だって、氷河に……氷河に希望をくれた人は、これまで一人もいなかったの? 氷河に希望を与えて、氷河を幸せにしてくれた人は」 「希望、か」 “希望”という言葉を口にする時、氷河の口調は殊更冷ややかになる――ような気がした。 あざけるように、彼はその言葉を口にするのだ。 瞬はそれが悲しかった。 瞬には、“希望”は何よりも価値あるものだった。 人はそれ無しには生きていけない。 だが、では、氷河にとって、それはどういうものなのだろうか――。 「一人だけいたな。俺の母が……彼女は、生きて そこにいてくれるだけで、俺の希望だった。希望そのものだった。彼女の存在を感じているだけで、俺は幸福になれた。彼女が死んで、俺はすべての希望を失った」 「……」 もしかしたら 二人が出会ってから初めて――氷河は揶揄や皮肉の響きを全く含まない声で、彼の“希望”を瞬に語った。 そう、瞬は思った――瞬には、そう聞こえた。 だが、氷河の希望は既に失われたものだった。 失われた希望が、あまりに大きく、あまりに美しいものだったから、彼は それに代わる希望は二度と自分の手には入らないと信じてしまったのだろう。 彼の母の死後、氷河はまさに“希望”に苦しめられ続けてきたのだ。 それでも――彼が希望というものを厭うようになった事情を知らされても――、希望そのもの、希望のすべてを否定する氷河の気持ちは、瞬には完全に理解することはできなかったのである。 だが、いくらかは理解できた――察することはできた。 だから、氷河を見詰める瞬の眼差しは、痛ましげなものになったのである。 アテナの聖闘士の同情は、冥闘士の彼には不快に感じられるものだったろう。 しかし、彼はその不快の念をすら、態度や言葉にすることをしなかった。 あくまでも無表情を保つ彼に、瞬は、不安を覚えたのである。 彼は、彼にとって最高のものであった希望を失い、絶望して、感情が麻痺してしまっているのではないかと。 たとえそうだったとしても、もちろん瞬は、彼に希望を抱かせることを諦めるつもりはなかったが。 そんなことくらいで諦めてしまったら、瞬は、彼の女神に『アテナの聖闘士の名折れ』と叱られてしまうだろう。 最後まで諦めない。 それが、アテナの聖闘士がアテナの聖闘士であるための唯一の資格なのだ。 |