アテナの聖闘士が自分を気の毒そうに見詰めていることに、氷河は気付いていた。
それが不快でなかったわけではないのだが、氷河は瞬の前で無表情でいた。
自らの希望や幸福を ことさら標榜したがる人間は、他人の不幸に同情することで、自分の幸福を より確かなものだと信じたがるものなのだ。
氷河は、わざわざ そのための材料をアテナの聖闘士に提供する気にはなれなかった。
代わりに、瞬に尋ねる。

「おまえこそ、なぜ希望なんてものを持っていられるんだ。人はみな利己的で、自分のことしか考えていない。そんな人間共を醜い存在だと思ったことはないのか」
「僕は――僕は、氷河と違って、生まれた時にはもう両親がいなかったの。何もなくて――希望しか、すがれるものがなかったんだ」
ささやかな微笑みと共に瞬が告げた告白を聞いて、氷河は我知らず自分の舌を噛むことになった。
そんなことをアテナの聖闘士に問うべきではなかったと、後悔して。
次に瞬がどんな言葉をハーデスの冥闘士に告げてくるのか、それが、氷河には手に取るようにわかった。
案の定、氷河が考えた通りの言葉を、瞬が口にする。

「氷河には優しいお母さんの思い出があって、だから――氷河は恵まれているから、絶望していられるんだよ」
それは“弱さ”であり“甘え”であると、アテナの聖闘士は勝ち誇ったように言葉を重ねてハーデスの冥闘士をあざけってみせるだろう。
氷河はそう察し、そう言われる覚悟も決めたのだが、暗に相違して、瞬はその言葉を氷河に投げつけてはこなかった。
そうする代わりに瞬は、氷河に向けていた同情の色の勝った眼差しを、羨望の思いがたたえられたそれに変えただけだった。
羨ましそうに氷河を見詰め、瞬が寂しそうに微笑む。
その瞳の輝きが あまりに切なくて、氷河は思わず瞬の上に据えていた視線を脇に逸らしてしまったのである。

自らの幸福を誇ろうとする卑屈と、自らの不幸を誇ろうとする高慢。
瞬は、そのどちらをも持ち合わせていないらしい。
瞬は、氷河が見知っている“醜い人間”たちとは異なる反応だけを示す。
瞬はおそらく非常に素直で、そして、気負いというものがない人間なのだろう。
高慢と卑屈がいやらしく混在した人間にばかり接してきた氷河の目には、そんな瞬の気負いのない素直さが、捉えどころのない不可思議なものに映った。
おそらくは、ただ素直で虚心なだけの瞬が、氷河には ひどく稀有な存在に感じられてならなかった。

「寒い……」
そんな氷河の耳に、瞬の小さな声が飛び込んでくる。
氷河がゆっくりと 視線を瞬の上に戻すと、ハーデスの冥闘士の甘えを糾弾する言葉など考えてもいないらしい瞬が、自分の二の腕を抱きしめるようにして震えていた。
それで、氷河は今更ながらに気付いたのである。
この奇妙な空間は、確とした色や形がないだけでなく 温度もない――ということに。

「アテナの聖闘士は随分と軟弱にできているんだな。これくらい、大した寒さでは――」
「寒いものは寒いの。僕は生きている人間だから。あ……冷たいと思ったら、聖衣に霜がついてる」
そう言いながら聖衣のマスクを外した瞬の顔を見て、氷河は目をみはることになったのである。
そこに現われたのは、戦いを生業なりわいとする戦士の顔として これほどふさわしくない顔もないだろうと断言できるほど異様な顔だった。

「意外と可愛い顔をしていたんだな。もっと きつくて可愛げのない顔をしているのかと思っていた。まるで女の子――」
「何か言った?」
「だから、まるで女の子――いや、女より綺麗……いや」
その可愛らしい面立ちをどう評すれば、この少女のような姿をしたアテナの聖闘士の機嫌を損ねずに、自分の正直な感想を伝えることができるのか。
氷河は、なかなか適切な言葉を思いつくことができなかったのである。
どうしても不適切な・・・・言葉しか思い浮かべることができず、結果として氷河は言葉を濁すことになった。
そんな氷河を見て、瞬が ぷっと頬を膨らませる。

「どうとでも言って。僕、そんなふうに言われるのには、もう慣れちゃってるんだから」
『慣れている』と言いながら、どこからどう見ても、瞬は拗ねている。
素直で虚心なはずのアテナの聖闘士が 妙なところで意地を張ってみせるのを、氷河は不思議なものを見る気持ちで見おろすことになったのだった。

「冥衣は平気なの? 冷却系の技を使う人の冥衣は、やっぱり低温に強くできているの?」
瞬に問われて初めて、氷河が自分の冥衣に思いを至らせる。
彼の冥衣のヘッドパーツは瞬の聖衣同様冷たく冷えきり、表面にうっすらと霜を帯びていた。
生きている人間が『寒い』と感じる程度に、この空間の温度が低いのは事実のようだった。
極北の地で生まれ育ったせいか、氷河自身はあまり寒さを感じていなかったのであるが。

「残念ながら、そうではないようだ」
氷河がそれを外した途端、それまで5、6歩分は離れたところに立っていた瞬が、何かに弾かれたように氷河の側に駆け寄ってくる。
自ら敵の懐に飛び込んでくるような瞬の行動に 氷河は驚かされたのだが、瞬には自分が危険なことをしているという自覚がないらしい。
至近距離から“敵”の顔を見上げ、見詰め、その数秒後、瞬は、我にかえったように その瞳を大きく見開いた。

「なんだ」
アテナの聖闘士のこの行動は、敵を敵とも思わぬ大胆なのか、あるいは油断なのか。
その判断に迷うことになった氷河の前で、素直で虚心なアテナの聖闘士は、実に馬鹿げた言葉を口にしてくれたのだった。――素直かつ虚心に。
「氷河が――僕が想像していたのより、ずっと綺麗だから驚いた」
「……。褒められた気がしない」
「どうして?」

心底 不思議そうに尋ね返してくる瞬の神経が、氷河には全く理解できなかったのである。
というより、理不尽だと思った。
つい先程、『女より綺麗』と褒められて・・・・・拗ねていたのは、他ならぬ瞬自身だったはずである。
その瞬が、『綺麗』を褒め言葉だと信じきっているような態度で、その言葉を用い他人の容貌を評することが理不尽でなくて何だというのだろう。
仮にも戦いを生業なりわいとする戦士であれば、他者に賞讃され認められたいものは、何よりもまず、その強さであるに決まっているではないか。
――と言っても無駄のような気がして、氷河は思い切り大きな溜め息をついた。

瞬は彼の敵である冥闘士が『想像していたのより、ずっと綺麗』なことに、至極満足したらしい。
嬉しそうに にこにこしだした瞬に、氷河は、自分たちの現状を思い出させてやるという親切を示してやらなければならなくなったのだった。
「出られると思うか」
「最後まで希望を捨てないのがアテナの聖闘士なの」
にこにこしたままで、瞬が氷河に頷いてくる。
その楽観振りが氷河の気に障り、氷河の声は我知らず 冷たく意地の悪いものになってしまったのである。
「それで死んでもか?」
「うん。すぐそこまでアテナは僕を救うために来てくれてたんだって信じて死んでいくの」
「……」
瞬は、叶うことはなくても希望は希望であると信じているらしい。
この瞬なら本当に パンがなくても希望だけを食って生きていくことができるのかもしれないと、氷河は思ったのである――というより、呆れた。
瞬が、そんな氷河の瞳を見上げ、見詰めてくる。

「あのね……。氷河は信じないかもしれないけど、僕は人を傷付けるのが嫌いなんだ。だから、敵対してる人を、実際に拳を交えることなく説得できないかって、いつも思ってる。僕がそう言うと、みんな甘いって――理想主義もほどほどにしておけって言うんだけど」
「その通りだ」
「そうかもしれない。でも、きっと、僕より氷河の方がずっと理想主義者なんだよ」
「俺が?」
「うん。あんまり理想が高すぎて、それが完璧に叶わないとすぐ絶望する。あんまり大きな希望を抱きすぎて、それが叶えられないと、希望や夢なんて無価値なものだと安易に決めつけてしまう。そういう理想主義者。違う?」
「……」

『違う?』と問われれば、氷河は、『違わない』と答えるしかなかった。
亡き母の存在は あまりにも大きく、その愛情は深く、彼女が息子に与えてくれた 生きることへの希望もまた強く大きく美しいものだった。
母が亡くなって初めて、母以外の人間と人の世に正面から向き合わなければなくなった氷河は、それらのもののあまりの醜悪と脆弱に打ちのめされてしまったのだ。
氷河が 醜悪で脆弱と感じるものたちの中には、母を失った氷河自身も含まれていたから、なおさら。
だからこそ氷河は、これほど美しくない世界は滅びてしまえばいいと思ったのだ。

「でもね。希望も理想も完全に叶うことはない。人は完全に善良なものではありえない。人は完全に幸福になることはできない。その現実は認めなきゃ。人間は、神じゃなくて人間だから、そんなふうなのは仕方のないことなの。だから、人には理想や希望が必要なんだ。それで、欠けてるところを補おうとするの。完全でないなら意味はないから滅びてしまえなんて考えるのは、努力することを放棄した完全主義者の理想主義者が 子供みたいに拗ねてるだけだよ」
「……」
どう見ても氷河より子供の姿をしたアテナの聖闘士が、“敵”に向かって、幼い子供をなだめ諭すような口をきいてくる。
それを生意気だと感じ無視するにはあまりにも――瞬の指摘は正鵠を射すぎていた。

「理想を追いすぎちゃだめ。完璧を求めすぎちゃだめ。理想は全部叶わないくらい、幸せは少し不満が残るくらいがいいの。人間は完全に邪悪にはなれない。完全に不幸になることもできない。だから、もっと いい加減でいいんだよ。でないと、自分を追い詰めることになるよ」
「……」
瞬に反駁する言葉を、氷河は見付けることができなかった。
氷河は――氷河自身が、完全に善良でもなく、完全に邪悪でもない“人間”だったから。
完全に幸福でもなく、完全に不幸でもない“人間”だったから。
そして、完全に絶望することができないからこそ戦い続けている“人間”でもあったから――。

アテナとハーデスの戦いは数千年の昔から連綿と続いてきた戦いなのだという。
俗世の人間たちがギリシャの神々を忘れ、新興の宗教の神に執着するようになってからも、その戦いは絶えることなく続いてきた。
それは、もしかしたら、人間が“心”というものを持った時から始まった戦いだからなのではないかと、氷河は思うことになったのである。

それは、一人の人間の心の中の戦い。
希望に焦がれながら絶望に傾きかける人間の心の中の戦いが、人の心を飛び出して始まった戦いなのではないかと、氷河は考え始めていた。
だとしたら、それは、人間が生きている限り戦い続けなければならない戦い、終わりがあってはならない戦いである。
その葛藤こそが、永遠の命を持たず、“完全”を手にすることもできない人間を生かし続ける力なのかもしれないのだから。






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