ハーデスとアテナの戦いは、人間の心の中での、希望と絶望の葛藤、生と死の葛藤を象徴する戦いである――と、瞬は思っていた。 だから、瞬は、その戦いに終わりが見えないことは、(ある意味では)いいことなのだと思っていた。 その戦いに決着がつく時、人は滅んでいるだろう。 少なくとも、その戦いの終結の場に 人の心を持った者は存在しないだろうから。 アナテは――その気になれば、ハーデスの冥闘士たちなど一瞬にして消し去る力を持っているアテナは――戦いの悲しい終結を見ないために、おそらくは“永遠に”この戦いを見守り続けるのだ。 この戦いが無意味なものでないことを知っているから、彼女はこの戦いを終わらせようとしないでいる。 瞬ももちろん、この戦いを無意味で無価値なものとは思ってはいなかった。 自分と同じ心を持つ“人”を傷付けることは悲しく苦しいことだったが、戦いの中には出会いもある。 そうして出会った氷河と共に戦い、共に生きていきたい――というのが、瞬の“希望”だった。つい 先程までの。 そして、希望の実現のために可能な限り努力するのがアテナの聖闘士。 たとえ その希望が ――寒さのせいで、瞬の体温と身体機能は著しく――尋常では考えられないほど急激に――低下していた。 「僕、寒いのに弱いのかな。ここでは小宇宙も燃やせないね」 小宇宙を燃やせない聖闘士――小宇宙を燃やせなくなった聖闘士が――特に自分が―― 一般の人間と大して変わらない、むしろ それ以下の非力な存在になることを、瞬は知っていた。 そして、瞬の身体は、寒さによって ほとんど力を奪われてしまっていた。 もう自分の足で立っていることさえ難しい。 自分は死ぬのかもしれない――。 急速に冷えていく自身の身体を認めながら、瞬は、アテナに聖衣を与えられて以来初めて、その不安を切実なものとして実感していた。 ぐらりと大きく揺れた瞬の身体を抱きとめ支えてくれたのは、今の瞬にとっては希望そのものである 氷河その人だった。 「瞬……!」 瞬の希望が 瞬の名を呼んで、もはや彼と戦う力も有していない非力な人間を、その腕で抱きとめてくれる。 きっと彼は、その名をしばらく憶えていてくれるだろう。 そう思って、瞬は微笑んだのである。 足に力が入らない。 瞬の身体への負担を減らすために、氷河がゆっくりと瞬の身体を地におろしてくれたが、瞬はそれで身体への負担が減じたと感じることはできなかった。 瞬に感じ取れるものは もう、自分の肩を抱き支えてくれる氷河の腕の温もりだけだった。 氷河の“綺麗な”顔を、瞬は必死に力を振り絞って見上げたのである。 「氷河。僕が死んで、氷河が助かったらね、アテナのところに行って。きっとアテナが氷河の気持ちを楽にしてくれるから。不完全な氷河を、アテナは許し認めてくれるから。ね、そうするって約束して」 いつのまに 瞬はここまで弱っていたのか――注視していれば 気付いていたはずのことに気付かずにいた自分にも腹が立ったが、それ以上に、こんな時に敵の行く末など気にかけている瞬に対して、氷河は憤ることになったのである。 子供のように拗ねてばかりいる愚かな敵のことなど――少なくとも今は――どうでもいいではないかと。 だが、今の瞬には、それこそが最も大切で、最も重要なことだったらしい。 体力を保持するために使うべき力を、瞬は、彼の希望を語るために使った。 「僕、ほんとはずっと、氷河と一緒に、アテナのために、同じ夢と希望を持って戦いたかったんだ」 「瞬……」 「叶わない夢かなぁ……」 涙は、力を失いつつある者が、その心を伝えるために、力を用いなくても流すことができるようになっているもののようだった。 瞬の瞳から零れ落ちた そのきらめきは、氷河の胸を鋭い刃物で切り裂くように痛めつけた。 「馬鹿! おまえはアテナの聖闘士だろう。諦めるなっ!」 それはハーデスの冥闘士が口にしていい言葉だろうかと、氷河は自分でも思っていたのである。 だが、言わずにはいられなかったのだ。 瞬は、氷河にとっても大切な――母を失ってから初めて出会った唯一の――希望だったから。 「おまえに会うのが楽しみで、襲撃があると聞くたび、勇んで聖域に乗り込んできた。戦場では、いつも最初におまえの姿を探した。いつか あのピンクで生意気な聖闘士を、俺の手で大人しくさせてやるというのが、俺の唯一の楽しみで――夢で希望だったんだ。俺の楽しみを勝手に奪うなっ」 「うん……」 なるほど人間は完全に絶望することのできない不完全な生き物だと、氷河は、瞬が語っていた言葉を噛みしめることになったのである。 すべてに絶望して――絶望したつもりになって――ハーデスの冥闘士として戦っていた時にも、彼の心は無意識のうちに希望を見付けていた。 その希望を失おうとしている たった今も、氷河は、彼の希望をたやすく諦めてしまうことができず、こうして足掻かずにはいられないのだ。 「近くで見ると、氷河の瞳、本当に綺麗。僕が映ってる……」 ものを美しいと感じるのは、その対象を見る人間の心の中にある美しさの力なのだと、わかりたくないことが、こんな時にわかる。 この美しいものを、氷河は失いたくなかった。 ハーデスとアテナの戦いが終わりのない戦いだというのなら、氷河はその戦いを瞬と共に戦いたかった。 その立ち位置はどうであれ、瞬と共に戦うのでないのなら、その戦いに意味はない。 否、瞬と共に戦うことができれば、その戦いは意味を持つ。 「瞬……瞬……!」 瞬の目が閉じられる。 瞬の身体から、力と、輝くように美しかった生気が失われていく。 他の何にも替え難いほど稀有で美しい希望を、自分は二度までも失ってしまうのか――。 その予感は、氷河の心を凍りつかせた。 もしそんなことになってしまったら、自分は今度こそ本当に、石のように心のないもの――人間でないもの――になってしまうしかない。 氷河は、そんなものになりたくなかった。 たとえ自分は死んでも―― そして、今の氷河が頼れるものはアテナしかいなかったのである。 この希望の命を失わせないための力を持つ者はアテナだけ。 ハーデスではだめだった。 「アテナ! アテナ、瞬を助けてくれ! 俺は死んでもいい。だが、瞬だけは……瞬はあなたの聖闘士だろう……!」 それが、無様な足掻きだということを、氷河は自覚していた。 必ず答えがあるはずだと期待していたわけでもない。 すぐに答えが返ってくるくらいなら、フテナは もっと早く彼女の聖闘士を救うために その力を発揮していたはずなのだ。 だが、氷河がそう叫んだ瞬間、まるで その時を待っていたかのように、アテナは、ハーデスの冥闘士に応えてきた。 応えてきてしまったのである。 『あなたが瞬のために生きると約束してくれたら、その願いを叶えてあげてもいいわ』 瞬の他には色も形もない空間に、どこからともなく、ひどく人間じみた女性の声が響いてくる。 あまりに迅速にすぎるアテナの返答を疑う余裕も、彼女がハーデスの冥闘士に突きつけてきた条件の意味を熟考する余裕も、今の氷河には持ち得ないものだった。 氷河の腕の中で、瞬の身体はどんどん冷たくなっていく。 氷河は、悲鳴のように、天に向かって吠えていた。 「何でもするっ! 瞬を死なせないでくれっ!」 ハーデスは決して笑わない神だったが、アテナはそうではないらしい。 瞬の他には色も形もない不思議な空間に、突然 光が射し込んでくる。 薄闇に慣れていた氷河の目には眩しすぎる その光が、氷河にはアテナの笑い声のように感じられた。 |