幸せの半分






梅雨の季節にも晴れた日というものはある。
真夏の真っ青な空になる手前の 僅かに水色を帯びた晴れた空には、入道雲と言うには少々厚みと明瞭な輪郭に欠けた白い雲のかけらが一つ二つ浮かんでおり、室内に入ってくる光は庭の緑の照り返し。
城戸邸ラウンジのソファに、氷河がなにやら思い詰めた顔をして腰をおろし、明確に焦点が合っているとは思えない視線を庭に投じていたのは、そんなある日の午後だった。

梅雨の晴れ間の一日の午前中いっぱいを星の子学園の子供たちとサッカーに興じて過ごし、見事勝利を収めて城戸邸に帰還した星矢は、威勢よく飛び込んだ部屋の中に、今の彼の気分には全く そぐわない表情をした男がひとりいるのを認めて、我知らず眉をひそめることになったのである。
そして、星矢同様 梅雨の晴れ間の一日の午前中いっぱいを、星の子学園の女の子たちへの『食べられる野草』の講義と調理実習に費やしてきた紫龍の方を振り返り、首をかしげることになった。

無論、星矢と紫龍は、氷河が思い詰めた顔をしているからといって、『白鳥座の聖闘士は自分の人生のあり方について思い悩んでいるのだ』などという、ありえないことを考えたりはしなかった。
氷河は、へたに顔の造作が整っているせいで、言葉を発していない時には、その顔が憂い顔に見えるという特異体質の持ち主なのだ。実際には、ろくなことを考えていなかったとしても。

ここ1、2ヶ月、アテナの聖闘士たちの周辺では大きな戦いは起きてはいなかった。
アテナは、この平和の継続とグラード財団の企業資産増大のために精力的に活動中。
世界は平和と安寧を保っている。
氷河が思い悩むような事件も事故も、アテナの聖闘士たちの周辺では起きていない。

だから、星矢は、氷河の憂い顔を見ても、本気で何事かを心配したわけではなかった――氷河が何事かを思い悩んでいるとは考えもしなかった。
この春、幼い頃からの執着と執念を実らせて ついに瞬を我がものにした氷河は、世界一とまでは言わないまでも、全世界で五指に入る程度には幸せな男でいるはずなのだ。
氷河に、たとえ思い悩むことがあったとしても、それはせいぜい、『俺の瞬はどうしてあんなに素直で可愛いんだろう』とか『今夜 瞬に○○を××することを求めたら、瞬は俺を軽蔑するだろうか』レベルのことだろうと、星矢はたかをくくっていたのだ。

が、そう言えば、氷河の側に瞬の姿がない。もとい、氷河が瞬の側にいない。
このところ、どんな時でも、どこにいくにも、それが自分の義務にして当然の権利と言わんばかりに 瞬のあとを追いかけてばかりいた氷河が、一人きりでラウンジにいる。
そのあたりに氷河の(一見)憂い顔の原因がありそうだと察して、星矢は氷河に探りを入れてみたのである。

「なんだ? しけたツラしてんな。瞬はどこ行ったんだよ。喧嘩でもしたのか?」
星矢たちが帰ってきていることに、どうやら氷河はそれまで気付いていなかったようだった。
星矢が勢いよく開けたラウンジのドアの音も、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちの気配も、氷河の五感と意識は全く知覚・認識していなかったらしい。
星矢が入れた探りに氷河が反応したのは、星矢が言った その言葉の中に『瞬』の名があったからにすぎなかったようだった。

「あ? ああ、帰っていたのか。瞬は、クロカンブッシュとやらを作る手伝いを頼まれて、厨房の方にいる。シュークリームを積み重ねるのに瞬のチェーンの力を借りたいんだと」
「なんだ、そのクロカンなんとかってのは。アオカンの親戚か何かか? 夜、外でやんの? 雨が降ってきたらどーすんだよ」
「小さなシュークリームを積み重ねて作る菓子らしいが、高く積み重ねるのにコツがいるとかで、メイドたちに引っ張られていった。高さ1メートル超を目指しているとか言っていたが――あの女共は瞬のチェーンを何だと思っているんだ」
「ははははは」
星矢の、あまり上品とは言い難いジョークを、氷河は実に見事に――眉ひとつ動かさずに――聞き流してみせた。
星矢は、二重三重の意味で空虚な笑い声を その場に響かせることになったのである。

「喧嘩にはならん」
氷河が、まるで独り言のように呟く。
星矢はその呟きに大きく首肯した。
「だよなー。瞬は、おまえの何がいいのかは知らねーけど、おまえに首っ丈で、おまえの気に入らないことしたり言ったりすることなんかできない奴だし。でも、だったら、そのしけたツラの原因は何なんだよ?」
まさか城戸邸メイド軍団に『アオカン作りに冷凍技は必要ないから、邪魔しないでください』と厨房を追い出されたくらいのことで落ち込んでいるのだとは(いくら氷河でも)考えられない。
そんな繊細な神経を氷河がもし持ち合わせているのなら、そもそも氷河は同性の瞬に堂々と恋の告白をすることなどできなかったはずなのだ。
少なくとも、いくらかは迷ったり ためらったりしてみせていただろう。

では氷河は 特異体質の憂い顔で何も考えずにいただけだったのだろうかと訝った星矢に、紫龍が低い声でぼそりと言う。
「察してやれ、星矢。この年頃の青少年が思い悩むことといったら、あれしかあるまい」
「あれって?」
「もちろん、下半身問題だ」
「へっ」
ジョークは笑わずに言われる方が、断然面白い。
紫龍が真顔で口にした氷河の悩みの内容に、星矢は爆笑することになった。
体力勝負の聖闘士が、中間テストでヤマが外れたと嘆くことはあっても、己れの下半身が不甲斐ないと思い悩むことだけは考えられない。むしろ、それは不可能である。
まして、悩んでいる人間が氷河となったら、天地がひっくり返っても、それはありえないことだった。

なにしろ氷河は、瞬に『好きだ』と告白するまでは長かったが――彼は、瞬に好意を抱いてから告白するまでに6年の月日をかけた――、告白後の行動は まさに電光石火だった。
氷河の告白を受けた瞬が『僕も』の『も』を言い終える前に、この助平男は、昼の1時という時刻にもかかわらず、瞬を自分のベッドに引き込んでしまっていたらしい。
すべてが終わってから仲間の許にやってきた瞬に、
「僕も氷河が好きって、ちゃんと言えてたかどうか、僕、自信がないんだ……」
と心許なげに打ち明けられて呆れ果てたことを、星矢はいまだに忘れかねていた。
ゆえに、星矢の認識では、下半身問題などというものは氷河には最も縁のない悩みと言っていいものということになっていたのだった。
そのはずだったのだが。

氷河は、紫龍のジョークを否定しなかったのである。
氷河はもちろん肯定もしなかったのだが、これは男の沽券と股間に関わる重大事。
それを即座に否定しないということは肯定したも同じことである。
当然、星矢は笑うのをやめることになった。
『下半身問題=できなくなった』と考えるのは早計だということに、遅ればせながら星矢は思い至ったのである。

「ほんとに下半身問題なのかよ? それって、やりすぎで瞬の身体を傷付けちまったとか、おまえがあんまりへたくそなんで瞬からクレームがついたとか、早すぎるとか遅すぎるとか、か?」
真顔で言うにはきつい話題だが、これは、笑いながら言ったのでは、それこそ笑いにごまかされてしまいかねない話題である。
結果として、氷河に事実確認を入れる星矢の顔と声は思い切り引きつったものになった。
が、氷河の憂い顔――それは『(一見すると)憂い顔』ではなかったらしい――の原因は、幸か不幸か、そういうことではなかったようだった。

「いや、それ自体はうまくいっているんだが、問題はそのあとで――」
「そのあととは……。おまえ、イビキや歯ぎしりの癖でも持っていたのか? それとも、寝言でマーマを呼んでしまったか」
「あー、そりゃ嫌われるわ。寝言で他の女を呼ばれたんじゃ、瞬の立場ってもんがねーもんな」
紫龍が提示した幾つかの可能性の中から最悪のパターンを選び取り、星矢が心得顔でコメントを入れる。
しかし、氷河は、それこそまさに浅慮の極みと言いたげな態度で、星矢のコメントを一蹴してしまった。

「阿呆。もし俺がそんな寝言を言ってしまったとしても、瞬は俺を嫌ったりはしない。むしろ同情心を募らせて、俺に優しくなるだけだ」
「なら、何なんだよ! もったいつけずに さっさと言えよ!」
つまらぬ茶々を入れて話を脇道に逸らしてしまったのは星矢当人だったのだが、それは決して氷河に のろけを言わせるためではなく、氷河をいじめるためだった。
思い通りに事が進まないのに苛立って、星矢は ついその声を荒げることになったのである。






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