室内に朝の陽射しがあふれていることに気付くことも忘れ、目覚めた氷河は それは、やわらかな春の微風に時折小さく ゆるやかに揺れる透き通った湖のようだった。 あるいは、深い森の緑を映して こんこんと清い水を湧き出している泉のようだった。 氷河が かつて見たこともないほど美しく澄んだ瞳。 そんな瞳の持ち主が、じっと氷河を見詰めていた。 「氷河……!」 氷河が目覚めたことに気付くと、その澄んだ瞳の持ち主は弾んだ声で氷河の名を呼び、嬉しそうに瞳を輝かせた。 温かな笑顔が、氷河に向けられてくる。 何日も眠ったままだった我が子の目覚めを認めた母親の眼差しと微笑のようだと、氷河は思ったのである。 その瞳の持ち主は、母というには若すぎ――幼すぎるといっていいほどだったのだが。 「いくら呼んでも起きてくれないから、もう二度と目を開けてくれないんじゃないかと思った……。よかった……」 それまで氷河が横になっていたベッドの枕元にあった椅子に腰掛けていたらしい 少女――あるいは少年か? ――が、居場所を氷河のベッドの上に移し、親しげな仕草で その手をのばして氷河の髪に触れてくる。 これは俺の知っている人間だろうかと、氷河はまず考えた。 すぐに、そんなはずはないという確信を得る。 これほど印象的な瞳の持ち主に、一度でも会ったことがあったなら自分は彼(“彼”のようだった)忘れるはずがない――というのが、その判断の根拠。 彼が氷河の知り合いのはずはなかった。 だというのに、彼が氷河に語りかけてくる声音は、まるで10年も前からの知り合いに対するそれのように親しげなのだ。 「いったい、ここはどこなの? なぜ僕たちはこんなところにいるの? 星矢たちはどこ」 「星矢たち?」 星矢は氷河の“知り合い”である。 では、この少年は星矢の友人で、だから、星矢の仲間である男にこうまで親しげなのか――。 だとしても、初対面の人間の身体に断りもなく触れてくるのは無遠慮な行為だろう。 彼にそうされることを不快に思ったわけではないいのだが――むしろ、それは心地良ささえ伴うものだったのだが――氷河は、できるだけさりげなく彼の手を払いのけ、彼に尋ねた。 「おまえは誰だ」 「え?」 「ここはどこだ。おまえは星矢の知り合いか。おまえは俺を――俺を知っているのか?」 「氷河……」 知っているから、彼はその名を口にできるのだろう。 呆然と、まるで信じられないものを見ているような目で、彼は氷河を見詰めてきた。 その瞳が、彼を知らないと言う男を責めているように見えて、氷河は思わず その視線を脇に逸らしてしまったのである。 そうしてから氷河は、もう一度 独り言のように呟いた。 「ここは……どこだ」 窓の向こうには、濃い緑があった。 重たげに濃く深い緑の葉をつけている背の高い木々は、日本でもギリシャでもシベリアでも見たことのない種類のものである。 「城戸邸の庭ではないようだが」 知らない場所――見たこともない部屋、見知らぬ少年。 初めて会ったが、この先 永遠に彼を忘れることはないだろうと確信できるほど印象的な瞳を持つ、細い肩の少年。 その綺麗な少年が、切なげな目をして氷河を見詰め続けている。 「城戸邸を知っていて、星矢を憶えていて、僕を知らないっていうの……」 「……」 そんなことを言われても、知らないものは知らないのだ。 今日初めて出会った人間を知らないことは罪ではないだろう。 彼の責めるような口調と眼差しは、氷河には心外だった。 決して腹が立ったわけではない。 腹を立てるには、氷河を見詰める彼の瞳は あまりに悲しげで――氷河は、悪いことをしているのは自分の方であるような気にさえなっていた。 「瞬だよ、氷河」 「瞬……」 名を名乗れば自分を思い出してもらえると、彼は期待して――願っていたらしい。 だが、その姿同様『瞬』という名も、氷河の記憶の中には存在しないもので、だから氷河は瞬の期待に応えてやることはできなかったのである。 「――」 沈黙の答えを返すことしかできずにいる氷河に与えられたのは、涙の返礼だった。 瞬の その綺麗な瞳に、見る見る涙が盛り上がってくる。 その涙が瞳から零れ落ちる前に、瞬は掛けていたベッドの端から立ち上がり、氷河に背を向けることをした。 “知らない男”に涙を見せるわけにはいかないと思ったのだろう。 瞬は、広い部屋を駆けるように突っ切って、ドアの向こうに姿を消してしまった。 氷河は、訳がわからなかったのである。 城戸邸に――あるいは聖域だったかもしれないが――いたはずの自分が、見知らぬ館の部屋にいる訳。 仲間である星矢たちの姿がここにない訳。 見知らぬ少年だけが自分の側にいる訳。 そして、彼が、白鳥座の聖闘士を以前から知っていたように振舞う訳。 なにもかも、わからないことだらけだった。 まさか、アテナの聖闘士である自分があんな非力そうな少年に誘拐されてきたわけでもあるまい――と、胸中で自分に冗談を言ってから、氷河は自分が聖衣を身につけていないことに気付いた。 つい先刻まで ここで眠っていた(らしい)男が聖衣を身につけている方が不自然といえば不自然な話なのだが、では、白鳥座の聖闘士の聖衣は 今どこにあるのか。 今 氷河が身につけているものは城戸邸の彼の部屋のチェストの中にあったYシャツだった。 ということは、自分は日本からここに運ばれてきたのだろうか――? わからないこと、合点のいかないことが多々ある。 というより、今 氷河の周辺にあるものは、わからないこと、合点のいかないことだけだった。 だが、そんなことよりも――。 今は、氷河は、瞬のことが気になった。 瞬は泣いていた。 おそらく“氷河”に泣かされたのだ。 瞬の悲しげな瞳を潤ませていた涙の残像が、氷河の胸をきりきりと締めつけてきた。 |