その光が人工のものだと気付いて、瞬は訝ったのである。
今が夜であるらしいことに。
瞬には、自分が就寝した記憶がなかった。
瞬の記憶域に残っている最後の記憶は 光でできていた――ような気がする。
だが、今が夜なのだとすると、自分は夢の中で光のある世界にいただけだったのだろうかと、瞬はぼんやりと思った。
だから、自分の記憶はどこかで誰かに強制的に断ち切られでもしたかのように、頼りなささえ覚えるほどに不明瞭なのだろうか――と。
瞬の推察(というより疑念)は、あながち見当外れというのでもないようだった。
瞬が目覚めた時、瞬は随分とアンティークな造りの大きな寝台の上にいたのだ。

「瞬! 気がついたのか。よかった」
突然、瞬の記憶に比べれば はるかに明瞭な響きを持った声が、瞬の上に降ってくる。
「え」
びっくりした瞬が 声のした方に視線をめぐらすと、そこには瞬の知らない人が立っていた。
瞬よりは少し年上の金髪の男性。
青い瞳が、命を持っている宝石のように明るく輝いている。

「驚いたぞ。気付いたら見知らぬ家の中にいて、家中探しまわって、やっとおまえを見付けたと思ったら、おまえは眠り姫みたいに寝入っていて、いくら呼んでも起きてくれないんだから」
「あの……」
綺麗な人だ――と、瞬は思った。
間違いなく世界は夜の空気に包まれているというのに、そこにだけ真昼の陽光が残っているかのように輝いている金色の髪、真夏の青空の色をした瞳。
文字通り、目が覚めるように美しい。
だが、彼は瞬には見知らぬ人だった。

瞬が目覚めた その部屋は、かなりの広さを有していた――有しているように見えた。
実際より広く感じられるのは、部屋の中に ほとんど家具がないから。
そして、一般の家屋よりは はるかに高い天井を有していた城戸邸より更に高いところに天井があるからのようだった。
そこは、快適な日常生活を営むためというより、訪問者に財力を誇示するために造られた館のように、瞬には感じられた。
城戸邸には こんな部屋はなかった。
窓の外から聞こえてくる木々のざわめきも、城戸邸の庭にあるささやかな木立が作る調べではなく、深い森が作る重厚な多重唱。

ここは深い森の奥にひっそりと立つ城館なのだろうかと、瞬は思ったのである。
しかも、この城には、優しい眼差しを備えた美しい王子様までついている。
もっとも、瞬が王子様と思った その人は宝冠も剣も帯びてはおらず、身につけているものは、ごく普通の濃紺のYシャツだけだったが。

瞬がベッドの上に身体を起こそうとすると、その王子様は素早く瞬の傍らに移動してきて、瞬の肩を抱きかかえるように手を貸してくれた。
今時の王子様は これほど行き届いたサービス精神を備えていないとやっていけないのかと 瞬が訝るほど――彼は過剰なまでに親切だった。
瞬は、人の親切を素直に受け入れられないほど頑なな心を持ってはいなかったが、それは見知らぬ人から提供されるには あまりにも行き過ぎた――言い方を変えれば、馴れ馴れしい――親切だった。
瞬は思わず、彼の傍らから身を引いてしまったのである。
そうしてから、瞬は彼に尋ねた。

「あの……あなたはどなたですか」
「なに?」
「ここはどこ」
「ここがどこなのかは俺も知らないが……瞬、何を言っているんだ? 頭でも打ったのか」
「あ……そうなのかも。ちょっとくらくらします。あの……それで、あなたはどなた」
彼は瞬を『瞬』と呼んでいる。
ということは、彼は瞬を知っているのだ。一方的に。

見知らぬ家の見知らぬ部屋に見知らぬ人がいて、自分は彼を知らないが、彼は自分を知っている。
自分だけが何も情報を持っていないという現実は、瞬を不安にした。
それは瞬が不利な立場にいるということで、この場では瞬の方が彼よりも弱者だということである。
この優しげな人が自分に危害を加えることがあろうとは思えなかったが――何と言っても、瞬は聖闘士である――彼だけが自分を知っていて、自分は彼を知らないという状況は、例えるなら、誘拐犯と誘拐された者のそれ。
瞬には、全く安心できるものではなかった。

誘拐犯の立場にある金髪の男が、腰をおろしていたベッドから立ち上がり、怪訝そうな目をして瞬を見おろしてくる。
それから、探るような視線と声で、彼は瞬に名を名乗ってくれた。
「氷河だ」
「氷河……」
彼は姿形が稀有なだけでなく、名前も特異である。
彼にはふさわしい名だと思い、瞬は微かに首肯した。

「あなたは僕をご存じなんですか? なぜ――」
「瞬、悪ふざけはやめてくれ!」
『氷河』と名乗った男が、突然、初対面の人間に対して声を荒げる。
『悪ふざけはやめろ』と彼は言うが、ふざけてるのはこの人の方だと、瞬は思わないわけにはいかなかった。
一度でも会ったことがあるのなら、これほど美しい人を忘れるはずがない。
名を名乗られたことがあるのなら、その名を忘れるはずがない。
瞬は自分の記憶力を、そこまで頼りないものと思ってはいなかった。
「ここはあなたの家? 僕は、どうして――」
「瞬っ!」
“氷河”の鋭い声が、瞬の身をすくませる。
瞬は こくりと息を呑んでから、恐る恐る彼の顔を覗き込んでみたのである。

そこにいたのは、やはり見知らぬ人だった。
見知らぬ人どころか――つい数分前に見た彼とも違う人物がそこにいた。
『初めて会う人を知らない』ということは必然の事実のはずである。
だというのに、彼は、その必然に腹を立てているらしい。
おとぎの国の優しい王子様という印象は、もはや彼の上には全く残っていなかった。
怒りを抑えることを知らない我儘な暴君のように威圧的で冷ややかな、それでいて燃えるように熱いものが、彼の瞳の中で揺れている。

自分はアテナの聖闘士である。
たとえ情報弱者であっても一般人の威圧に脅威を感じる必要はない。
瞬は懸命に自分に言い聞かせたのだが、彼が発している圧倒的な力に怯えずにいることは瞬には無理なことだった。
彼の姿をただ視界に映しているだけのことにも、尋常でない緊張を強いられる。
瞬は、顔を伏せ、身体を縮こまらせた。

「瞬。おまえは本当に――」
瞬に対して圧倒的優位を占めているはずの彼の声が かすれている。
その理由を探ろうとして瞬が顔を上げようとした時には既に、彼は瞬に背を向けてしまっていた。
そのまま大股に部屋のドアに向かい、瞬の前から姿を消す。
「あ……」
そんなものを感じる必要はないと思うのに、瞬は、何かひどい罪悪感のようなものに支配された。






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