翌日、氷河は、その城館を出ることにした。 見知らぬ建物の中に閉じ込められているという状況は決して快いものではないし、同じ館に あの切なげな目をした少年がいるのだと思うと、なぜか息が詰まるような胸苦しさを覚える。 氷河は、少しでも瞬との間に距離を置きたかった。 昨夜自分は食事をとっただろうか――と、奇妙なことを考えながら、氷河は、彼が寝室として使っていた部屋を出た。 普通の洋館なら この方向に食堂があるはずと当たりをつけて向かった場所で、目的のものを見付ける。 その部屋には10メートルほどの長さのテーブルが置かれ、テーブルのいちばん奥の席と、その右横に二人分の食事が用意されていた。 その食事を作った者、運んできた者、給仕のために控えている者たちの姿はない。 洋館自体は2、3世紀は昔に建てられたものなのだろうが、料理は現代のそれ。 食器もローゼンタール社のかなりモダンなタイプのものが使われていた。 「食ってもいいのか?」 と、誰にともなく尋ねた声に、木霊だけが返ってくる。 昨夜食事をとった記憶がないにもかかわらず、氷河の空腹はさほど切実なものではなかった。 が、空腹でないわけでもない。 そして、その食事は二人分――まるで、あの少年と自分のために用意されたもののように、そこにある。 だから、この二人分の食事はそういうものなのだと一人決めして、氷河は席に着き、勝手に食事を始めてしまったのである。 白雪姫も、小人たちの食事を断りも得ず勝手に食したはず。 彼女が行儀の悪い姫だった可能性もあるが、ここではそれが許されるような気がした。 パン、サラダ、コールドスープに生ハムやサラミ等のコールドミール――ごく一般的なコンチネンタルの朝食メニューを氷河があらかた食べ終えた頃、瞬がその場に姿を現わした。 「あの……おはよう……ございます」 「ああ、勝手に食ってしまったが、まずかったか」 「いえ……。僕たちのために用意されたもののようですから……」 それきり何も言わず、食事の席に着くこともせず、瞬が氷河を見詰めてくる。 瞬のその視線は、氷河の上に、尋常でない居心地の悪さを運んできた。 『俺がおまえを知らないのは、俺のせいじゃない!』と、氷河は瞬の視線に怒鳴り返してやりたかったのである。 だが、そんなことをしたら、この少年は昨日と同じように その瞳に涙を浮かべることになるだろう。 そして、自分は、悪事を働いていないにもかかわらず罪悪感に苛まれるという理不尽に耐えなければならなくなるのだ。 それがわかっていたから、氷河はかろうじて瞬の視線への反駁を表明せず席を立つことができたのである。 そして、瞬をその場に残して、氷河はそのまま城館の外に出た。 氷河は、瞬と同じ部屋の内にいると息苦しくてならなかった。 そもそも氷河は、見知らぬ他人と同じ空間にいることに慣れていない。 幼い頃に母を亡くしてから、氷河が他人との共同生活ばかりを営んできたのは事実だが、氷河にとって星矢たちは親しみやすい仲間で、家族のようなものだった。 彼等と共にいる時に、堅苦しさや緊張感を覚えたことはない。 逆に、『親しき仲にも礼儀ありだぞ』と 瞬は、そんな星矢たちとは全く対照的な空気を その身にまとっていた。 懐かしい人を切なげに見詰めるような瞬の眼差しは決して よそよそしさや隔意を伴ったものではないというのに、氷河は瞬の眼差しに出合うと息が詰まるのだ。 反射的に心身が緊張し、到底安らぎなど感じられない。 瞬が氷河に与えてくれるものは 胸を締めつけるような痛みと罪悪感だけで、だから氷河は、できれば瞬の姿を視界に入れたくなかったし、少しでも瞬との間に距離を置きたかった。 あの眼差しに触れることのない場所に我が身を置きたかったのである。 瞬を城館に残し外に出ることで、氷河は幾許かの開放感を得ることができた。 季節は初夏。 城門のすぐそこにまで迫った深い緑が、濃密な酸素を氷河の肺に送り込んでくる。 見知らぬ館は四方を木々に囲まれた、まさに森の中の一軒家。 この城でオーロラ姫が百年の眠りに就いていると言われれば容易に信じることもできそうな場所に、その城館は建っていた。 そんな場所で、どちらに向かえば瞬以外の人間のいる場所に出られるのか、氷河には皆目見当がつかなかったのである。 一度 館の内に戻り、高みから周囲の様子を確認して出るべきかとも思ったのだが、しかし、戻る途中で瞬に会うことは避けたい。 考え迷った末、氷河は今日はこのまま森の中に分け入ってみることにした。 瞬の涙を見ることに比べたら森の中で迷う方がよほどましと、氷河は思わずにはいられなかったのである。 ここがどこなのかを知らないと、瞬は言っていた。 ここがどこなのか――せめてギリシャなのか日本なのかだけでも確かめられれば――。 氷河はそれを今日の自分のささやかな目標に設定し、濃い緑の中に足を踏み入れたのである。 森の中を進むうちに、氷河は、ここが国土の狭い島国にある森とは思い難くなってきた。 夏の乾燥と痩せた土壌の地中海性気候の国も、これほどの森を育めるとは思えない。 氷河が足を踏み入れた森は、しいて言えば、グリム童話の舞台にでもなりそうな森――広い土地と多湿と陽光に恵まれた場所にのみ存在し得る森だった。 木々の幹は太く、それなりの間隔をおいて立っているのに、長く伸びた枝とその葉が緑の屋根を作っている。 それらの葉や枝の隙間から陽射しが洩れ、あちこちに小さな陽だまりが幾つもできている。 それは、今にも木の陰から赤頭巾と狼が飛び出てきそうな森だった。 あいにく、氷河がそう考え始めた時、木の陰から飛び出てきたのは、赤い頭巾をかぶった幼い少女ではなく、のびやかな腕とやわらかい髪を無防備に外気にさらしている細身の少年だったのだが。 「氷河……!」 瞬は、氷河が館を出たことに気付き、食事もとらずに氷河を追いかけてきたらしい。 息を切らせ 僅かに頬を上気させている瞬は、屋内にいる時より はるかに生き生きと輝いて見えた。 自分に罪悪感を強いている人間が可愛らしく魅力的なことは、決して喜ばしいことではない。 氷河は我知らず、迷惑そうな顔を作ってしまっていた――らしい。 それまで、いなくなってしまった人の姿を見付けて輝いていた瞬の瞳が、にわかに かき曇る。 それは、心ない人間に傷付けられた幼い迷子のような瞳だった。 そうじゃない――! と、氷河は胸中で叫ぶことになったのである。 そうではなく――嫌いだから迷惑なのではなく、気になる人だから迷惑なのだ。 声に出さなかった氷河の言葉が瞬の耳に届くはずもなく――瞬は氷河の表層に現われた迷惑顔を、自身の目に見えた通りのものと受け取ったらしい。 悲しげに、瞬はその顔を伏せてしまった。 「ひ……一人でいるのは恐いの。い……一緒に行ってもいいかな」 俯いたまま、瞬が氷河に尋ねてくる。 それは、氷河には聞き流してしまえない言葉だった。 『一人でいるのが恐い』というのは。 「一人? あの館には俺たちの他には誰もいないのか」 「他の人の姿を見たことはないよ」 「そんなはずはないだろう。あの食事の準備はおまえがしたのか? 掃除も行き届いていたぞ。無人の館には見えなかった」 「でも、一度も誰も見たことない」 では、あの食事は魔法で用意されたものなのだろうか。 ここは本当に童話の世界だとでもいうのだろうか。 だとしたら、さしずめ瞬は赤頭巾で、俺は赤頭巾を食らおうとするオオカミか――。 そんな馬鹿げたことを考えてしまってから、それは危険な発想だと、氷河は自分を戒めることになったのである。 ここが魔法の森であるはずはない。 ここは現実の地球のどこかに実在する、ただの謎めいた森のはずだった。 5、6時間、二人で当てもなく森の中を歩きまわって、わかったことはただ一つ。 似たような姿をした大木でできている この森は、迷い込んだ者の方向感覚を乱し 既視感を煽る迷路そのもので 自分の懐に飛び込んできた獲物を解放してやろうという親切心を持っていない――ということだけ。 結局二人は元の館に帰ることしかできなかった。 ただ二人でろくに言葉を交わすこともなく森の中を歩きまわっていただけだったというのに、館の部屋に戻った氷河は疲れきっていた。 身体が疲れたというのではない。 それはどう考えても気疲れだった。 瞬は極めて従順で大人しく、氷河のすることを邪魔するでもなく、足手まといになるようなこともしなかった。 瞬は、ただそこにいるというだけで氷河の心身を緊張させ、そして訳もなく氷河を苛立たせた。 |