一日中 外を歩き回っていたような気がする。 そんな記憶はないのだから、それは錯覚のはずだった。 疲れている身体を寝台の上に投げ出したはずなのに、唐突に目覚めてしまった瞬は、そんな自分を訝ることになってしまったのである。 瞬を眠りの中から呼び起こしたものの正体はすぐにわかった。 それは氷河の視線――だった。 いつのまにか氷河が瞬の寝室の中にいて、あの青い瞳で瞬をじっと見詰めていたのだ。 彼はぶっきらぼうではあるが、乱暴ではない。 少なくとも今のところ、瞬に対して腕力に訴えるようなことはしていない。 激しやすい性格らしく、声を荒げることはあったが、瞬にひどい言葉を投げつけてくるわけでもない。 彼はただ、瞬が“知らない”ことを瞬が“忘れてしまった”のだと決めつけて、苛立っているだけなのだ。 自分に責任のないことで一方的に責められるのは理不尽だと思うが、それで自分が彼を恐れる必要はないのだと、瞬は懸命に自身に言いきかせた。 ここには時計がない。 だから、正確な時刻はわからない。 時計の代わりに、森の木々のざわめきが重く感じられることと夜行性の鳥――おそらく、フクロウかミミズク――の鳴き声が、今が深夜だということを瞬に教えてくれた。 「あ……あの、何か……」 なぜここに彼がいるのか。 いつから彼はここで自分を見詰めていたのか――。 それくらいのことなら尋ねる権利もあるだろうと思い、瞬は彼に尋ねた。 低く抑揚のない声が、夜の空気を僅かに震わせる。 「おまえが俺を呼んでいるのではないかと」 「どうして、そんなこと――」 乱暴なこともしない。 ひどい言葉を投げつけてくるわけでもない。 それでも瞬は、彼が恐かった。 彼が勝手に人の部屋に入り込んできたことを責めることもできないほど。 だから、瞬は、無理に笑って、自分はそんなことはしないと彼に知らせようとした――だけだった。 が、それだけのことが、彼を激昂させてしまったらしい。 瞬のぎこちない笑みと言葉に触れると、彼は、途端に眉を吊りあげ、それまでは比較的 穏やかだった眼差しをひどく険しいものへと変化させた。 瞬はびくりと全身を震わせ、萎縮することになってしまったのである。 なぜ彼が怒るのかが、瞬にはわからなかった。 こんな深夜に人を呼ぶなど、呼ばれた人間にとっては、それこそ非常識で迷惑なことではないか。 呼んだことで腹を立てられるならともかく、呼んでいないことで腹を立てられるなど、全く理に適っていない。 ――と、瞬は思った。 だが、思ったことを言葉にする勇気は、彼の前では到底 持てない。 瞬は、ふいに泣きたくなってしまったのである。 そんな理不尽な怒りを 当然の権利のようにぶつけられるほど、彼は“瞬”を軽んじている――あるいは、憎んでいる。 彼の知っている“瞬”は、彼にとってそういう存在だったのだ、おそらく。 「僕は――“瞬”は、あなたの敵だったの?」 「なに?」 「僕はあなたの敵で、でも、記憶をなくしているから、あなたは僕を殺せずにいるの?」 彼の知っている“瞬”と自分が別の人間であればいい――彼が人違いをしているだけであればいい――と、瞬は心から願った。 願うまでもなく、そのはずなのだ。 瞬は彼を知らなかったし、自分の記憶が欠けているという 瞬は、そんなものを感じたことは一度として、一瞬たりともなかったのだ。 「ぼ……僕は、あなたの知っている瞬さんじゃないと思います……」 勇気を振り絞って、瞬は氷河に訴えてみた。 自分が敵に忘れられるという侮辱に見舞われていないことを知ったなら、彼の怒りも少しはやわらぐのではないかと期待して。 その期待が叶ったのか叶わなかったのかを、瞬が確かめることはできなかった。 瞬のその訴えを聞くと、氷河は無言のまま、瞬の部屋を出ていってしまったから。 広い部屋にひとり残されて、瞬は肩を震わせたのである。 恐い――瞬は、氷河が恐くてならなかった。 彼はいつも何かに苛立っているようで、神経を張り詰めさせている。 だが、瞬が何よりも『恐い』と思うのは、自分が彼に憎まれていること、自分は彼に嫌われているのだと思わずにはいられないことの方だった。 瞬は、彼に嫌われていることが恐かった――嫌われていたくなかった。 あの苛立ちが、忘れられた悲しみを隠すための虚勢のように見えて、それが苦しい。 嫌われたくない人を苦しめているのが自分だということが悲しくてならない。 あんな悲しげな苦しげな険しい眼差しではなく、この館で初めて出会った時に彼が見せてくれた、あの優しい眼差しでこそ、瞬は彼に見詰められたかった。 そうなったらどんなにいいだろうと思う。 それが決して叶うことのない夢だということが、瞬をつらい気持ちにさせた。 |