「氷河、僕だよ」 囁くような瞬の声は、子守唄の響きに似ている。 それは、目覚めかけていた氷河の意識を、逆に眠りの中に押し戻した。 周囲に朝の気配を感じる。 氷河が眠っているベッドの上では、朝の光の粒子が飛び跳ねているはずだった。 それでも、氷河は瞼を開けることができなかった。 瞬の声が あまりにひそやかで、その声が目覚めを誘うためのものに聞こえなかったから。 「どうして僕を忘れたりできたの」 実際に瞬は、氷河に目覚めてもらいたくて彼の名を呼んだのではないようだった。 捉えようによっては恨み言と解することも可能な瞬の言葉には 氷河を責める響きはなく、瞬はただ その事実――事実なのだろうか? ――を悲しんでいるだけのようだった。 ――氷河には そう聞こえた。 目覚めている男を正面きって責めることはできないから、瞬は眠っている男の枕許で泣いているのだ。 瞬が泣いている――。 瞬を泣かせているのが自分だということはわかっていたが、『自分は瞬を忘れた』という認識を持てずにいる氷河には、瞬を慰めてやることはできなかった。 そのための言葉も思いつかない。 では自分にできることは瞬の嘆きに気付かぬ振りをしていることだけだろうと、氷河は思った。 少なくとも今は、それ以外に彼が瞬のためにしてやれることはなかった。 だから、氷河は目を閉じたままでいたのである。 そんな氷河の上に、思いがけないこと――氷河には想定外の出来事――が降ってきた。 瞬が、その唇を氷河の唇を重ねてきたのだ。 氷河は目を閉じたままで、全身を硬直させてしまったのである。 目覚めていることを瞬に気付かれてしまう――と氷河は焦慮に囚われたのだが、瞬は瞬自身の悲しみに耐えるだけで精一杯らしく、氷河が一瞬だけ見せた変化に気付いた様子は見せなかった。 自分の唇を受け入れてくれない唇に焦れるように、瞬は幾度も氷河の唇に触れてきた。 時折、舌先で、眠っている(ことになっている)男の唇の間をつついてくる。 どう反応したものか、それともやはり眠っている振りを続けるべきかと、氷河はこれ以上ないほど迷い混乱したのである。 氷河が結局 目覚めてみせることができなかったのは、その時の氷河がほぼ金縛り状態になっていたからだった――かもしれない。 やがて、瞬の唇が氷河の唇から離れる。 瞬の指が氷河の頬と耳にかかっていた髪を脇に寄せる。 そして、瞬の唇は今度は氷河の耳に触れてきた。 それがゆっくりと首筋に下り、胸へと移動していく。 瞬の指は、唇の辿ったあとを追いかけるように氷河の肩や胸をなぞり、氷河は感触の異なる二種類の愛撫をその身に受けることになった。 それは、どう考えても性的なニュアンスを含んだ愛撫だった。 初めてではないように ためらいなく、瞬は眠っている男の肌を愛撫する。 目を閉じている氷河の脳裏に浮かぶのは、幼さと無垢がないまぜになっているような瞬の清純な面差しと あの澄んだ瞳。 本当に あの清らかな風情の持ち主が こんなことをしているのか――現にその愛撫を受けていながら、氷河はその事実を信じることができなかった。 そんなことがありえるだろうか。 いくら人間離れして綺麗でも、相手は男である。 もし本当に自分が瞬を忘れているのだとしても、自分たちが同性同士でそんな関係を持っていたはずがない。 理性はそう言って、懸命に落ち着くよう氷河を諭してくるのだが、瞬の羽根のような感触の愛撫はあまりにも刺激的で、氷河は自分の下半身が熱くなっていくのを どうしても止めることができなかった。 瞬の指と唇は、氷河の腹部に至ろうとしていた。 今すぐ―― 一刻も早く瞼を開け、瞬の指と唇を払いのけなければ、その変化を瞬に気付かれる――と、氷河の心は焦った。 だが、同時に氷河は、瞬に何もかも知られてしまってもいいから、瞬に触れ続けていて欲しいとも思ったのである。 だが――。 瞬はもしかしたら、氷河よりは よほど理性の勝った状態にあったのかもしれない。 瞬は眠っている男の性器に触れることまではしなかった。 氷河の切望にもかかわらず、まもなく瞬は その唇と指とを、氷河の上から取り除いてしまった。 朝からいったいこれはどういう拷問だと、氷河の身体と意識は言葉もなく悲鳴じみた呻きを洩らすことになったのである。 「氷河、僕だよ」 眠っている男に、瞬が再び訴えてくる。 瞬の囁き――切なげな、かわいそうな瞬の囁き――。 それでも、氷河は思い出すことができなかった。 思い出せるものなら、100万回でも思い出してやりたいのに、氷河はどうしても瞬を思い出すことができなかったのである。 |