「瞬、俺だ」
瞬を目覚めさせたのは、その日も 氷河の鋭い視線と声だった。
時計がなくてもわかる。
彼は、深夜にしか瞬の部屋にやってこない――陽光の中にいる彼を見たことがない。
いったい彼はいつ眠っているのかと、瞬は怪訝に思ったのである。
不思議だったがそんなことを尋ねるのも恐い。
今夜も彼の目は、幾日も獲物に出会えずにいる肉食の獣のそれのように苛立っていた。

おそらくは彼の敵だったものが 敵対していた時の記憶を失っているから(そう思っているから)、彼は彼の敵だったものに危害を加えまいとしている――のだ。
彼が懸命に自身を抑えようとしてくれているのはわかる。
それはわかるのだが、彼を恐れる瞬の心は 瞬自身にも変えようのないものだった。

「おまえはなぜ俺を恐がるんだ」
彼に対して感じている恐怖の念が、表情や仕草に出てしまったのかもしれない。
彼は低い声で瞬に尋ねてきた。
本当は憤りも露わな怒声で そう問い質したいのだと わかる声音で。
いくら声を抑えても、その瞳の中にある怒りは隠しようがない。

「あ……」
自分は弱い人間ではない。
少なくとも他人の暴力を恐れる必要はない人間だと、瞬は必死に自分に言いきかせた。
だが、氷河の目は恐い――のだ。
彼に その青い瞳で凝視されていると――見詰められているだけで――息苦しささえ覚える。
瞬は、ベッドの上で両肘を使って後ずさった。
その所作が、氷河の苛立ちを更に煽ってしまったらしい。
彼は、その腕をのばし、シーツの上にあった瞬の手を掴みあげてきた。
肘で支えていることができなくなった瞬の身体が、ベッドに仰向けに倒れ込む。

「なぜ逃げる。逃げるな」
瞬の肩をシーツに押しつけ、彼は瞬の動きを封じようとした――実際に封じられてしまった。
彼は その手にほとんど力を加えていない。
それでも瞬の身体は、彼に押さえられているせいで身動きができなくなり、その現実は、あまりにも切実な恐怖を瞬の許に運んできた。
「放してくださいっ」
パニックに陥り、瞬はほとんど悲鳴のような声で彼に解放を求めることになったのである。

「瞬」
瞬の取り乱す様に、彼は最初は 怒りより戸惑いを覚えたようだった。
瞬の名を呼ぶ彼の声には、瞬を落ち着かせようとする響きさえ混じっていた――かもしれない。
だが、恐怖に囚われていた瞬には、それがわからなかった。
「放してっ!」
見知らぬ男に危害を加えられると決めつけているような瞬の声に、氷河がむっとしたような顔になる。
そして結局、彼は、無害な男を演じるのを断念したのだろう。
彼は居直ったように突然、その瞳に酷薄そうな光を宿らせ、瞬に宣言した。
「放してやる。俺の気が済むまで、おまえを犯してから」

「……!」
いったい彼は何と言ったのか――。
聞き間違いだと、瞬は思ったのである。
あるいは彼は、その言葉を何か別の意味で用いたのだと。
そうでないことは すぐにわかった。
人の心を冷たく射抜くようだった彼の瞳は、今はぎらぎらと熱く たぎっていて――それは、今は熱そのものでできているようだった。

憤りを抑えようとしてくれている彼を 自分が『恐い』と感じていたのは、では、彼の中にある そういう邪心を感じていたからだったのだろうか――と、瞬は疑うことになったのである。
そんなはずはないと、瞬の理性と感性はすぐに 瞬のその考えを否定してきた。
そんなことはありえないのだ――と、恐怖に押し潰されそうになっている瞬の理性が異議を唱えてくる。
“瞬”は聖闘士なのである。
この地上に、やすやすとアテナの聖闘士を拘束したり危害を加えたりすることのできる者がいるはずがない。
瞬と同じ聖闘士でも、神ですらも、それは容易にできることではないはずだった。
だから、瞬が恐れていたのは、氷河の苛立ちというより、その苛立ちの陰に見え隠れする悲しみややるせなさで――瞬は、自分が彼を傷付けているということを感じ取り、それが恐ろしかったのだ。
断じて彼の暴力を恐れていたのではない。
――そのはずだった。
そうでなければ おかしい。

ほとんど微かな痙攣のように、瞬は、小さく首を横に振った。
「何を……あなたは何を言ってるの。僕は男だよ」
「そんなどうでもいいことは憶えているのに、俺のことは忘れるのか」
「氷河……」
「その、男のおまえが、毎晩俺の下で喘いで、泣いて俺を欲しがっていたことを思い出させてやる」
「そ……そんなことあるはずが――」
「おまえが忘れたからといって、事実あったことが なかったことになるわけがない」

本気だ――。
瞬は、戦慄と共にその事実を感じ、認めることになった。
たとえ狂気の中に陥っているのだとしても、彼が本気なのは疑いようがない。
彼は本気で、瞬にそういう暴力を加えようとしている。
あまりのことに気を失いそうになりながら、瞬は、彼の手から逃げようと身体をよじったのである。
だが、彼の手に手首を掴まれている瞬は、文字通り、身体をよじることしかできなかった。

聖闘士である自分が、彼から逃げられない――小宇宙を燃やせない。
なぜこんなことになるのかがわからず、その理由を探ろうとして、瞬は氷河の瞳を見上げた。
彼と視線が出会った途端、そうしたことは間違いだったと気付く。
彼の瞳の持つ力は異様なほど強い。
瞬は二人の視線が交わった その瞬間に、氷河の酷薄そうな瞳に射すくめられてしまっていた。

自分の意思で自分の身体を動かすことができない。
彼のこの力はいったい何なのかと 訝り ひるんだ隙を衝かれて、瞬は彼に唇を奪われていた。
首を振ろうとしたのだが、それも許されない。
舌で瞬の唇をこじ開けようとしながら、氷河が その手で 夜着の上から瞬の腿を掴みあげる。
「あ……」
そうして、そのまま瞬の脚の間に身体を割り込ませ、氷河は瞬の身体を自分の身体の重みで押さえつけてしまった。
布越しに感じられる氷河の下腹部の怒張が、瞬に恐怖を忘れさせるほどの混乱を運んでくる。
彼は本気なのだということが、そして、本当にそれができる状態にあることが、瞬には信じられなかった。

こんなことがあっていいのかだろうか――これはあり得ることだろうか。
聖闘士であるはずの自分が、ごく一般的な腕力と憎悪以外の力を持たないはずの男に動きを封じられている――。
「いや……いやだっ」
混乱と恐怖と拒絶がないまぜになった声をあげた途端、瞬は、氷河に身につけていたものを引き剥がされていた。
その身体に、直接 夜の空気が触れてくる。
見知らぬ男の前に裸身をさらしているというのに、瞬は羞恥を感じることもできなかった。
これは、ありえないことだと自身に言いきかせること以外――もはや、瞬にはそれ以外にできることがなかったのだ。
瞬の力では、彼から逃れることはできない。

「嘘……嘘だ、こんなの。やだ、いや、助けて、――!」
だから、瞬は、助けを求めたのである。
誰かの名を呼んで、瞬は助けを求めた。
瞬自身には聞こえなかった その名が、氷河には聞き取ることができたらしい。
氷河が その端正な貌を歪めて笑っている。

「痛むぞ。身体から力を抜け」
そうして彼は、瞬の身体を残酷なほど深く折り曲げて、瞬の中に押し入ってきた。
「あああああ……っ!」
恐怖なのか、痛みなのか、驚愕なのか――正体のわからない何かが、瞬に悲鳴をあげさせる。
「俺を忘れたりするから、こんな目に合う」
氷河は、そんな瞬に同情した素振りすら見せてくれなかった。
彼はただ、瞬の中を奥へと奥へと進んでくる。
彼によってもたらされる痛みは焼けるように熱く、それは二人が交わっている部分から瞬の背筋を伝って全身に広がっていった。
指先まで、爪先まで、焼けるような痛みが瞬を覆い尽くす。

「いや……どうして、こんな……ああ……!」
身体の中に自分以外の生き物が じわじわと入り込んでくる感覚に、瞬の恐怖は頂点に達しかけていた。
「なぜ思い出してくれないんだ……!」
「痛い……いたい……いや……ああ……!」
“瞬”がこんな暴力に蹂躙されることを“氷河”が許すはずがない。
なのに なぜ自分はこんな目に合っているのか。
瞬には、どうしてもその訳がわからなかった。

「助けて……氷河……! 氷河、どうして助けに来てくれないの……!」
自分に暴力を加えている男に救いを求めている矛盾にも、瞬は気付いていなかった。
見知らぬ男の身体と力に押し潰されかけながら、瞬は、なぜ氷河は助けにきてくれないのかという思いだけに囚われていた。






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