低血圧の気はないはずなのに――と、朝の光の中で、氷河はぼんやり思ったのである。
まるで厚く濃い靄が充満してでもいるかのように、氷河の頭は重かった。
が、模糊としていた氷河の意識は、まもなく これ以上ないほど明瞭に覚醒することになったのである。
勢いをつけて、上体を起こす。

氷河の隣りに瞬がいた。
瞬の身体は、まるで半分死にかけている人間のそれのように力なく、ぐったりしていた。
腰から下は掛け布で隠れていたが、瞬が裸でいることは改めて確かめる必要もない事実だった。
薄い掛け布は、瞬のなめらかな身体の線を隠すどころか、むしろ強調するかのように瞬の身体にまとわりついていたのだ。
うつ伏せになっている瞬の左手は、氷河の左の肩があっただろう場所に、何か大切なものを掴もうとして掴み損ねた手のように力なく置かれている。
瞬の手首には鬱血したような跡があった。
どう考えても、力のある男の手に掴み上げられてできたのだとしか思えない、縛めの痕。
瞬の手首には、指の跡がはっきりと残っていた。

衣服を着けていないのは、氷河も同じだった。
昨夜 自分が瞬に何をしてしまったのかは、考えるまでもないことだった。
まさか自分がと疑うことさえ、氷河にはできなかったのである。
瞬のありさまは無残としか言いようのない悲惨なものだったというのに、その姿を認めた氷河の目と身体は、彼の下半身に熱い血液を集め出していたのだ。
それで自分の理性を信じられる男がいたとしたら、氷河はぜひとも その男の顔を拝んでみたかった。

「あ……氷河……」
瞬の目覚めに気付くと、氷河は、たちの悪い悪戯を大人に見咎められた臆病な子供のように びくりと身体を震わせることになった。
そして氷河は、瞬の涙と悲鳴を覚悟した。
が、氷河が予想したものは、彼の上に降ってこなかったのである。
瞬は氷河を責める素振りを見せなかった。
むしろ甘えるように、瞬はその腕を氷河の腰に絡めるようにのばしてきた。
触れられるわけにはいかない。
咄嗟にそう判断し、氷河は乱暴にその手を払いのけたのである。

「氷河……」
まだ半分以上まどろんでいるようだった瞬の目と意識は、それではっきり覚醒したらしい。
だから、その後の瞬の動作が異様に緩やかだったのは、瞬の中にある不安やためらいのせいだったに違いない。
瞬は緩慢な動作でベッドの上に身体を起こし、僅かに脚を崩した格好で、氷河の前に座り込んだ。
その裸体を、瞬は隠す気がないようだった。
愛撫というより乱暴の跡が残っている瞬の白い身体――が、氷河の目の前にさらけ出される。

「俺はおまえに何をした」
「え……」
「いくらおまえが綺麗でも、こんな――こんな無体を、この俺が……」
ほとんど初対面の相手に自分がこんな無体をするとは信じられない――と言いかけて、氷河はその言葉を途中で途切らせた。
この無体をしたのは自分だと確信できているのに、そんなことを言ってどうなるのだ――と、氷河は思わないわけにはいかなかったのだ。

「氷河……思い出してくれたんじゃなかったの……」
瞬がその顔を俯かせ、くぐもった声で そう呟く。
氷河にはよく聞き取れなかった その声には、落胆の響きはあっても非難の響きはなかった。
だが、今の瞬が――こんな無体をされた瞬が――無体を働いた男を責める言葉以外の言葉を口にすることがあろうとは、氷河には考えることができなかった。

「……すまん」
謝ってどうなるものでもあるまいと思いはするのだが、今の氷河には謝罪の言葉以外に言うべき言葉が思いつかなかった。
後悔に奥歯を噛みしめた氷河の腕に、瞬が、呪縛の痕の残る手をのばし、そっと触れてくる。
そうしてから瞬は、切なげな笑みを浮かべて、苦しげに眉根を寄せている氷河の顔を覗き込んできた。

「いいんだよ。氷河は僕に何をしても。僕は、氷河に何をされても嬉しいんだから」
「こんなひどいことをされて嬉しいはずがない」
瞬の訴えを、氷河は、当然のごとくに信じることができなかった。
信じられるはずがない。
手首だけでなく、瞬の身体のそこここには――痛々しい暴力のあとが残っている。
なまなましいものが流れた跡さえ、瞬の腿には残っていた。
しかも、あろうことか、その様に欲情している自分が、現にここにいるのだ。
瞬が、常識を超えた その寛大さで その罪を許そうとしても、罪は罪であるに違いない。

氷河には昨夜の記憶が全くなかった。
自分が本当に瞬を犯したのだということを、実感として感じることはできない。
だが、他に誰がいるというのだ。
今すぐ、今度は忘れてしまわないように瞬の身体を味わいたいという欲望にかられて、おそらくは たった今も そういう目を瞬に向けているに違いない男の他にいったい誰が、瞬にこんなことをするというのか――。

「そう……。思い出してくれたんじゃなかったの……」
瞬の切なげな微笑は いよいよ切なさを増し、悲しげなものになっていった。
これが自分に暴力を働いた男を責めるためのものでなくて何だというのだ――と思うしかない氷河の耳に、信じられない言葉が飛び込んでくる。
「思い出してくれなくてもいい。それでも、僕は氷河が好きなの。好きです」
「瞬……」
「だから、氷河は僕に何をしてもいいの」

人として許されない暴力に及んだ男の瞳を見上げ、見詰めて そう告げる瞬は痛々しいほど健気で、そんな瞬に浅ましい欲望を覚えている自分を、氷河は軽蔑せずにはいられなかった。
だが、氷河は、それ以上我慢できなかったのである。
喉が痛いほど渇いて、この渇きを癒せるものは瞬の唇しかないと思う。
痛々しい縛めの痕の残る瞬の手首を、氷河は掴みあげた。
「すまん。許してくれ。俺はおまえが欲しい」

氷河がかすれた声で告げた言葉に、瞬が泣きそうな目をして微笑む。
氷河が覆いかぶさるようにして 瞬の身体を再びシーツの上に横たえさせると、瞬は溜め息とも喘ぎともつかない小さな声を洩らし、氷河の背に細い腕を絡ませてきた。






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