身体を切り裂かれるような痛みと重み――。
瞬は、その感覚に覚えがあるような気がした。
否、瞬にそう主張するのは瞬の身体のみで、瞬の意識と心は、自らの身体の訴えを錯覚だと決めつけていた。
瞬は、そんなはずはないと幾度も自身の身体を説得しようとしたのだが、瞬の身体は瞬の心と記憶にあくまでも逆らった。
彼の唇の感触、指の動き、手の平の熱さ、彼の髪がこの胸を撫でていく時の切なさも、身の内で彼が子供のように奔放に暴れていることを実感できる喜びも 私は知っていると、瞬の身体は瞬に言い張り続けるのだ。
我が身が彼を受け止められることをどんなに嬉しく思っていたかを、私は知っている――と。

これほど屈辱的でみじめな行為に甘んじなければならない状況を どうすれば嬉しいと思うことができるのだと 瞬が反論すると、瞬の身体は悲しげに切なげに身悶えた。
今の彼は、あなたに忘れられてしまった悲しみとやるせなさに囚われて、『愛している』という言葉を囁くことを忘れているだけなのだから許してあげてと、瞬の身体は瞬に囁いてくる。
そんな言葉くらいで この屈辱と痛みが消えるものかと、瞬は自らの身体の訴えを退けた。

退けはしたのだが、自分の身体の中に彼がいること、その感覚を自分が以前知っていたような気がするのは紛れもない事実だった。
氷河と長く繋がっているうちに、瞬の意識と心は その事実を認めないわけにはいかなくなってしまったのである。
彼がいつものように・・・・・・・、『愛しているから我慢してくれ』と言ってくれたなら、確かにこの痛みは快いものに代わるかもしれないとも思った。
だが、彼は言ってくれないのだ。
この苦痛を消し去り、屈辱を誇りに変える力を持つ、その言葉を。
代わりに、彼は、『俺を思い出せ』とそれだけを繰り返すのだ。

瞬の中で、それは更にじわじわと力を増していた。
そして、更に奥へと漸進してくる。
瞬は、身体を強張らせて、その侵入に耐えるしかなかった。
もし自分が本当に彼のことを忘れてしまっているのだとしても、そして以前は彼が自分を愛してくれていたのだとしても、今の彼が“彼を忘れてしまった人間”を憎んでいるのは紛う方なき事実だと、瞬は思わないわけにはいかなかった。
(僕は、氷河の何だったの。どうして氷河は僕にこんなひどいことをするの。それとも彼にこんなことをさせてしまうくらい、ひどいことをしたのは僕の方なの……)
彼の心の内にあるものが何なのかがわからないことが、瞬は悲しくてならなかった。

そんなふうに、瞬の心は悲しみに打ちひしがれているというのに、やがて氷河は、瞬が敵でも敵でなくても、そんなことはどうでもよくなっていったらしい。
まもなく彼は、瞬の中から身を引いては再び押し入り、押し入っては身を引くことを繰り返して、瞬の身体と心を圧する遊戯に夢中になり始めた。
瞬はそのたび 身体を切り裂かれるような痛みに襲われたが、その痛みを感じているのは、既に瞬の身体ではなく心の方だった。

この悲嘆と苦痛から逃れられる時は永遠にこないのではないかと思い、瞬が気が遠くなりかけた頃、短く低い呻く氷河の声が瞬の耳に届けられた。
残酷な遊戯は、やっと終わったらしい。
何か熱いものが身体の奥に広がっていくのを瞬は感じたのだが、それは、これでやっと彼の暴力から解放されるという安堵の思いだったかもしれない。

これで氷河は気が済んだはずだと、瞬は思った。
彼は 彼が憎んでいる者を思う存分 痛めつけ、完全に彼に屈従させたのだ。
これで満足しなかったなら、彼は真性の嗜虐症患者だろう。
瞬は、自分の上に投げ出された氷河の身体の重みから逃げ出そうとした。
氷河の肩を押しやろうとした。
だが、腕にも指にも力が入らない。
瞬は、絶望的な気分になってしまったのである。
他人にここまで屈従させられ、為す術もない自分を、本当にみじめだと思う。
次の瞬間に、もし氷河が その思いがけないことをしてくれなかったら、瞬の心は悲嘆のために死んでしまっていたかもしれない。

思いがけないこと――。
少しでも暴行者の側から離れたいと願い、その願いを叶えられずにいる瞬の顔を、あの青い瞳が窺うように覗き込んでくる。
その瞳は、瞬よりも絶望していた。
瞬を傷付け支配することに夢中になっていた氷河が、力を入れることができないせいで小さく震えている瞬の指先を見やり、
「俺は馬鹿だ」
と呻くように呟く。
「これでおまえが俺を思い出すようなことがあったら、俺たちは身体だけで繋がっていたことになってしまうのに……」

燃えているように攻撃的だった青い瞳が、今は後悔の色に染まっている。
それはまるで獰猛な肉食獣に追い詰められ死を覚悟して震えている臆病な草食動物の瞳のようだった。
昨日まで彼は、どこまでも広い草原を心の赴くまま自由に駆け巡っていたというのに、今はもう彼には何の力もない。

圧倒的な力で その意思を捻じ伏せ蹂躙し屈服させた相手に、こんな目を見せる彼は卑怯だと、瞬は思ったのである。
悔いて罪が消えるものなら、人は『罰』などという言葉も、永劫の地獄などという幻想も作り出しはしなかっただろう。
にもかかわらず――それがわかっているのに、彼を許したいと思っている自分に気付き、瞬は胸が苦しくなった。
こんなふうだから、アンドロメダ座の聖闘士は、敵にも味方にも いつも『甘い』と揶揄されるのだと、苦く思う。
だが、今になって瞬は、もしかしたら 彼の『思い出せ』は『愛している』と同じ意味を持つ言葉だったのではないかと思い始めていた。

「僕は……氷河の敵じゃなかったの? 氷河は僕を憎んでいるわけじゃない……の?」
「俺は、おまえを愛している。おまえも俺を愛してくれていた――はずだ」
「……」
「おまえが憎くてこんなことをしたんじゃない。俺がおまえにそんなことをするわけがない」
「あ……」
『俺はおまえを愛している』――そんな言葉一つで、彼を許してしまいそうになっている自分を、本当に愚かだと思う。
だが、許したいのだ。
許したくて許したくて仕方がない。
『罰』という言葉を作ったのが人間なら、『許し』という言葉を作ったのも人間だろう。
そして、その言葉を作ったのは、罪を犯した人間ではなく、おそらく受難者の方だったに違いないと、瞬は思った。

「氷河は本当に僕を憎んでいなかったの? 今も憎んでいないの?」
そうであったなら嬉しい。
氷河は苦渋に満ちた表情で、だか確かに瞬に頷いてくれた。
「俺を受け入れて、俺を感じてくれれば、おまえが俺を思い出してくれると思った。本当にそれだけだ。おまえに忘れ去られてしまったら、俺は俺の生きている意味を失ってしまう。俺はそれが恐かった――」
「……」

彼の言葉を信じるなら――瞬は彼の言葉を信じたかった――彼を苦しめていたのは、彼に罪を犯させた人間の方だということになる。
彼に許しを乞うべきなのは自分の方だということになる。
そして、瞬は、彼にこれ以上苦しんでほしくなかった。

「ごめんなさい……。僕はやっぱり氷河を思い出せない。でも、僕は……僕が氷河に憎まれてたんじゃないことが嬉しい」
「瞬……」
「思い出せないけど、僕は氷河に苦しんでほしくないと思う。思い出せなくて、ごめんね……」
「瞬……!」
一瞬 瞬の言葉に苦しげに眉根を寄せた氷河の手が瞬の頬に触れ、唇が唇に重なってくる。
それは、あれほどの乱暴をした男の手と唇とは思えないほど優しい感触でできた愛撫と口付けだった。
氷河の手の感触は瞬の身体を傷付けることに怯えているように、力がこもっているにもかかわらず軽い。

「おまえが謝ることはないんだ。おまえが自分の意思で俺を忘れたはずはないんだから。思い出せないのなら、もう一度俺を好きになってくれ。頼む」
多分 彼の願いは叶えられるだろうという予感が、瞬を頷かせる。
氷河の身体が再び熱くなりつつあるのを、瞬はその肌で感じていたが、瞬の中からはもう彼を恐いと感じる心は消えてしまっていた。






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