氷河王子が それまで恋や結婚というものに極めて消極的で、むしろ それらのものを断固として忌避していたのは、おそらく彼がマザコンだったからではなく、彼が運命の人に出会っていなかったからだったのでしょう。
恋に消極的どころか!
氷河王子は、瞬に出会ったその日その夜のうちに、彼の運命のいる部屋に忍び込むという暴挙に出てしまったのです。
恋とは、良くも悪くも人を変えるものです。

王宮の一画に用意された部屋で、氷河の奇跡は、明日の王室主催大武闘会開会式 及び 本選に備え、既に眠りに就いていました。
窓から射し込む月明かりに照らされている瞬の寝顔は、花よりも優しく、月光よりも清らかで、氷河王子の胸を大きく波打たせました。

氷河王子の名誉のために言っておきますが、氷河王子は決して、この清らかな奇跡に痴漢行為を働こうとか、我が物にしようとか、そんな邪まなことを考えて瞬の部屋に忍び込んだのではありませんでした。
ただどうしても会いたくて、1ミリでも瞬の近くにいたくて、1秒でも長く その姿を見詰めていたくて――要するに、氷河王子は、恋の情熱に逆らいきれずに そういう行動に出てしまっただけだったのです。
邪まな気持ちはないはずだったのですが――瞬の寝顔を見詰めているうちに、どうしても その頬に触れてみたくなった氷河王子は、またしても恋の情熱に押し切られ、自分の願いを叶えてしまったのでした。

いかに花の風情をした美少女とはいえ、2万人強の力自慢たちの頂点に立つ力量を持ったつわものの一人です。
氷河王子の指先が頬をかすめる気配を敏感に察知したらしい瞬は、実に素早く 横にしていた身体をベッドの上に起こしました。
「誰っ」
完全に気配を殺していたつもりだった氷河王子は、瞬の誰何すいかの声に大層びっくりすることになりました。
びっくりしすぎて、氷河王子は自分の姿や顔を隠すことを忘れてしまったのです。

月明かりの中で二人の視線が出合います。
そうして、二人はしばし互いを見詰め合うことになりました。
氷河王子の瞳を見詰めて――それで氷河に害意のないことを察してくれたのでしょう。
瞬は あまり緊張した様子もなく小首をかしげ、今度は穏やかな声音で氷河王子に尋ねてきました。
「あの……あなたはどなたですか」
「なに?」

氷河王子は、自分をこの国で一、二を争う有名人だと思っていたので、そんな質問を受けるのは非常に不本意、想定外のことでもありました。
王族の写真は本来 御真影として滅多に市井に出回らないのですが、この武闘会に参加したということは、瞬はあのポスターを見ているはずでしたしね。
ですが、今 二人のいる部屋には月明かり以外の照明はありませんでしたから、瞬が氷河王子を自国の王子と見極められないのも さほど奇妙なことではありません。
それに、誰だって、仮にも一国の王子が庶民の許に夜這いに来るなんてことは考えないものです。
瞬が氷河王子を北の国の王子と気付かぬことを幸い、氷河王子はこの場での自己紹介はしないでおくことにしました。
身分を盾にして瞬を自分の前に跪かせるようなことを、氷河王子はしたくなかったのです。

「あ、いや、俺は、明日からの本選で審査員を務める者の使いできたんだ。おまえが本選に残った者たちの中では際立って細いので、どうやってバトルに勝ってきたのか不思議でならないから、確かめてこいと言われた」
それは咄嗟に口を突いて出た 出まかせだったのですが、瞬の様子を間近で見れば見るほど、確かにそれは不思議なことでした。
瞬は小柄で、その肩や腕は細く、花を摘む力さえ備えていないのではないかと思える風情をしていたのです。
かといって、前夜祭会場で身に着けていたものから察するに、瞬は勝利を金で買えるほど経済的に恵まれた家の娘というのでもなさそうです。

実際、八百長などはなかったのでしょう。
氷河王子の質問に、瞬は素直な目をして答えてきました。
「はい。僕、頑張ったんです。僕、すばしこいので、ここまで霍乱戦法で何とか勝ち残ってこれました。強い人がいっぱいいて、何度ももう駄目かもしれないって思ったんですけど――」
恥ずかしそうに そう告げる瞬の可愛らしいことといったら!
氷河王子が一瞬 くらりと目眩いを覚えるほどでした。

「そんなに勝ちたいのか? おまえは それほど俺の妻になりた――いや、重責のある仕事に就きたいのか」
「そりゃあ……」
瞬がゆっくりと、俯くように頷きます。
そして、瞬は、氷河には想像もできないような彼女の生い立ちを語ってくれたのです。

「僕、みなしごなんです。物心がつく前に両親を失いました。ついこの間まで、王立の養護施設にいたんですけど、義務教育が終わって施設を出なければならなくなったんです。だから、どこかで働こうと思ったんですけど、身元が確かでないせいでどこにも雇ってもらえなくて――。僕みたいな子供は履歴書ではねられてしまって、採用試験も受けさせてもらえないの。どうしたらいいのかって途方に暮れていたら、どこからともなく この武闘会の募集要綱が飛んできたんです。神様の思し召しだと思いました。募集要綱には資格不問経験不問、より良い国作りのために務める重責のある仕事だって書いてあって、僕にもそういうお仕事ができたら嬉しいだろうなって思ったの」

両親を早くに亡くしたのは氷河王子も瞬と同じでしたが、王宮で何不自由なく生きてきた氷河王子には、瞬の語る瞬の生い立ちは、大層 悲惨で痛ましいものに思えました。
瞬は、けれど、その悲惨な境遇を恨み呪っている様子もなく淡々と――むしろ明るく前向きに、氷河王子に語るのです。
氷河王子は、瞬の屈託のなさに戸惑いさえ覚えていました。
もし自分が瞬のような境遇で生きることを強いられたなら、自分はきっとその運命を恨み憎み続けるに違いないと、氷河王子は思ったのです。

「そ……そうか」
ともあれ、瞬が、強大な北の国の王妃になって豪華なドレスや宝石で身を飾りたいというような、俗っぽい欲望に突き動かされて この場にいるのではないことは確かなことのようでした。
贅沢や権力地位を望んで来たのではなく、残念なことに、氷河王子の容姿に惹かれ氷河王子に恋焦がれて武闘会に参加したのでもないようでした。
そうではなく、瞬が(未来の)王妃の座を望むのは、この国をより良い国にする仕事に憧れたから――。

仮にも一国の王子という立場にありながら、氷河王子は これまで一度も、国のために務めたいなどということを考えたことがありませんでした。
ですから、そういう理由で王妃になりたがる人間もいるのかと、氷河王子は目からウロコが落ちる思いでした。
同時に、こんなに綺麗で可愛いのに自分を飾ることも考えず、国のために――つまりは他人のために――その若さと美貌を捧げたいだなんて実にもったいない考えだと、氷河王子は思ったのです。
どれほど強く願い望んでも氷河王子には手に入れることのできない“自由”という宝を、瞬はその手にしているというのに。

「おまえは、そんなことより、自分のために、自分を幸福にするために、自由気ままに生きたいとは思わないのか」
それが、氷河王子の望みでした。
王子の地位も権力もいらない、贅沢な生活も望まない。
ただ、自分の力を自分のためにこそ使い、その力がどれほどのものなのかを試してみたい――というのが。
瞬はそうではないのだろうかと疑い、氷河王子は瞬に尋ねてみたのです。

瞬はそうではないようでした。
氷河王子の質問を、むしろ奇異なことと思っているような顔をして、瞬は僅かに首をかしげました。
「自分を幸せにするためだけに生きていたら、僕は自分しか幸せにできないでしょう? でも、誰かを幸せにするために生きて、実際にそうすることができたら、僕は、その誰かと僕の二人を幸せにすることができるんです。その方が絶対 得でしょう?」

「……」
瞬が簡単な足し算の説明をするように軽快な口調でそう言うのを聞いて、氷河王子は息を呑むことになりました。
そんな計算が成立するなんてことを、氷河王子は生まれてこの方 一度も考えたことがありませんでしたから。

「人が生まれて生きているのは、誰かを幸せにするためでしょう? ひとりぽっちで、自分は誰にも必要とされていない、自分は誰の役にも立てていない存在だって思うしかないのは、とても悲しくて寂しいことだよ。あなたはそうじゃないの?」
「いや、俺は――」
瞬にまっすぐな瞳で尋ねられた氷河王子は しどろもどろ。
瞬に何と答えたものかが、氷河王子には本気でわからなかったのです。

今現在、自分が誰の役にも立っていない存在だという自覚はありましたが、氷河王子は自分が誰にも必要とされていない存在だと感じたことは一度もなかったのです。
むしろ、この国のために、この国の王子としての務めを果たせ果たせと言われ続けて、氷河王子は うんざりしていました。
だからこそ氷河王子は、誰からも必要とされず、誰に対しても義務と責任を負わずに済む自由こそが この世界の中で最も価値あるものと、固く信じていたのです。
けれど、瞬の考えは、氷河王子の考えとは真逆。
瞬は、たとえ自由でも、誰にも必要とされない人間である自分を悲しく寂しい存在だと感じているようでした。

いつまでも答えを返してこない――実際は答えを返せずにいる――氷河王子を、瞬がまじまじと見詰めます。
月明かりで――瞬は、氷河王子が身に着けている高価な服を認めたのでしょう。
氷河王子が、その若さにもかかわらず相当高い地位にあることを、瞬は察したようでした。
小さな溜め息を一つ洩らして、瞬は呟くように言ったのです。
「あなたはきっと、みんなに愛されて、みんなから必要とされている人なんですね……」
寂しそうに俯いて、そして、心から羨ましそうに、瞬はそう言った――。

その様子があまりに寂しげだったので――瞬の細い肩が、まるで泣いているようだったので――氷河王子は深い罪悪感に囚われることになってしまったのです。
「すまん……」
ベッドに上体を起こしている瞬の前で、氷河王子は頭を下げました。
そして、カミュ国王にだって言ったことのない謝罪の言葉を口にしました。
瞬が、そんな氷河王子の振舞いに驚いたように、首を横に振ります。

「どうして謝るの。それはとてもいいことで、とても素敵なことです。あたなの周りには、あなたがいないと悲しむ人や困る人がたくさんいるんでしょう? あなたは人のためになれる人なんです。羨ましい……」
「……」
それは本当に 人に羨ましがられるようなことなのでしょうか。
カミュ国王や大臣たちに、王子としての務めを果たせと毎日せっつかれることが?
おまえはこの王室のただ一人の王位継承者なのだからと、様々な義務の遂行を強要されることが?
そうなのかもしれない――と、氷河王子は思ったのです。
生まれて初めて、自分は恵まれた人間なのかもしれない――と、氷河王子は思いました。

「僕も誰かの役に立てる人になりたい。誰かの僕になりたい。僕は何ものかになりたい――」
瞬は、誰かに必要とされ役に立って初めて、人には存在意義が備わるのだと考えているようでした。
そして、瞬は、氷河王子の妻になりたいのではなく、この国の民のために働くことのできる(未来の)王妃になりたいと思っているようでした。
要するに、瞬にとって、氷河王子はどうでもいいモノなのです。
氷河王子は、瞬に必要とされていないのです。
それは確かに寂しく悲しいことでした。

生まれて初めて恋した人が、氷河自身はもちろん、氷河王子の王子としての地位にも価値を置いていないことを知らされて、氷河王子が落胆しなかったといえば、それは嘘になります。
ですが、だからこそ氷河王子の恋心が更に激しく燃え上がることになったのもまた、紛う方なき事実でした。
むしろ、氷河王子は、この時初めて本当に 瞬に恋をしたのだったかもしれません。

「おまえが俺に好意を持っていてくれなくても――」
「え?」
「いや、明日からの本選、必ず勝ってくれ。おまえが勝たなければ、この武闘会を開いた意味がない。おまえを求めている者が、この王宮にはいるんだ」
「あ……」

みなしごで、誰かのために働きたくても その機会と場所さえ与えられずにいた瞬には、『おまえを求めている者がいる』という言葉は、何よりの励ましだったのでしょう。
瞬は、ほのかな月明かりの中でも見てとれるほど 目を赤くして、瞳を潤ませ、氷河王子を見上げ見詰めてきました。
今にも涙があふれそうになっている その目をこしこしとこすって、瞬は氷河王子に力強く頷いたのです。
「はい。僕、頑張ります!」

それが、北の国の王子様である氷河と、一介のみなしごにすぎない瞬の間に交わされた、最初の誓いでした。






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