最悪の夢






夜の公園。
時刻は既に午前0時をまわっている。
緑の多い公園は、日中は市民の憩いの場になっているのだろう。
つい半日前には この場所で小さな子供たちが明るい声を響かせて駆け回り、老人たちがゆったりと木陰で涼んでいたのかもしれない。
だが、深夜になると、豊かな緑は、むしろ常夜灯の灯りを遮る不穏な影になる。
そのせいもあるのか、夜の公園内に人の姿はほとんどなかった。

瞬がそんな公園のベンチに一人でぽつりと腰掛けていたのは、自分がどこに行くべきなのかがわからなかったから。
自分に帰るべき家があるのかどうかもわからなかったから、だった。
「おまえ、やたらと綺麗な顔をしているな。もう暗いのに、こんなところで一人で何をしているんだ?」
「え……?」
そんな瞬に、見知らぬ中年の男が、ふいに声をかけてくる。
背広を着てネクタイを締めているところを見ると浮浪者の類ではないようだったが、普通の会社員とも思えない。

「君みたいな子が 一人でこんなところにいるのはよくない。危ないから、俺ともっと明るいところへ行こう」
ぼんやりとした街灯の光だけでも、彼の爬虫類めいた目の様子が、瞬には明瞭に見てとれた。
その男に二の腕を掴まれて、瞬はぞっとしてしまったのである。
「放してください。僕は――」
その男から逃れようとして瞬は身を引いたのだが、彼は瞬を解放しようとはしなかった。
逆に、瞬の腕を掴んでいる手の力を増してくる。

男は、酔っているわけではなさそうだった。
そして、瞬は、酔っていないからこそ、その男が恐かったのである。
瞬の腕を掴む男の手の力は強く、痩せっぽちの子供にはとても振り払えそうにない。
「は……放して!」
「大きな声を出すな!」
「やだっ!」
彼の手から逃げることは叶わない――。
そう判断せざるを得なかった瞬にできることは、四肢を身の内にしまいこんで外敵の攻撃から逃れようとする小動物のように、全身を固く強張らせることだけ。

恐い、恐い、恐い――。
声にならない悲鳴が、瞬の身体の中で警鐘のように鋭く幾度も鳴り響く。
ここはどこで、なぜ自分はこんなところにいるのか。
なぜ自分は一人きりなのか。
自分はなぜ無力で、誰も自分を守ってくれないのか。
瞬には わからないことばかりだった。
何もかも――自分のことも、自分がいる世界のことも、何もかも――すべてがわからない。
わかることが一つもない。

掴まれた腕を乱暴に掴み上げられ、掛けていたベンチから身体を引き離される。
自分はもう、生まれてくるべきではなかった小ヤギのように屠殺場に引かれていくしかないのだと、瞬が絶望的な思いにかられた時、二人の間に割って入ってくる人間がいた。
「こら、そこの男! ここで何をしている!」
ここがどこなのかということは わからなかったが、どうやら ここは他者に腕力を振るえる者が正義や法となる無法地帯ではなかったらしい。
法と正義は力を持つ一個人に属するものではなく、社会の治安を維持するためのルールが、腕力や暴力とは別にちゃんと存在する世界であるらしい。
瞬と中年の男の間に割って入ってきたのは、制服を身につけた警官だった。

瞬を掴まえていた男は、さすがに警官相手に事を構える気はなかったらしい。
かといって、すんなりと瞬を解放するつもりもないようだったが。
駆けつけてきた警官に、男はその顔に薄ら笑いを浮かべて、彼の権利を主張し始めたのである。
「いや、これはウチの不良娘で――お騒がせして申し訳な――」
「僕、男ですっ!」
自分が何者なのかは わからなくても、自分が彼の娘でないことだけはわかる。
瞬は警官に向かって必死に訴えた。
「なにぃ !? 」
瞬を掴まえていた男は、瞬のその言葉を聞くや、夜の公園に素頓狂な声を響き渡らせることになった。

瞬の訴えに驚いたのは、瞬の腕を掴んでいる中年男だけではなかった。
瞬を危地から救い出すべく、この場に駆けつけてきてくれたはずの警官までが、一瞬ぎょっとした顔になる。
それはともかく、瞬を掴まえていた男は、“男”には用がなかったらしい。
「男の不良娘……ですか?」
警官に不審げな視線を向けられると、男はすぐさま瞬を掴まえていた手を放した。
そのまま踵を返してどこかに走り去る。
男の姿が視界の内から完全に消え去ってからやっと、瞬は大きく深い安堵の息を洩らしたのだった。

「何もされてないか? 怪我は」
瞬を見おろす警官の顔が奇妙に歪んでいるのは、瞬が男子だということを、彼がまだ信じきれずにいるせいだったかもしれない。
「だ……大丈夫です。ありがとうございます……」
身体の震えが止まらないせいで、声も震える。
まだ事件になっていなかったことを確かめると、瞬を危地から救い出してくれた警官は、おそらく自身の気を取り直すために2、3度 首を左右に振った。

「男の子でも、まだ中学生か高校生だろう。早く家に帰りなさい」
そう言ってから、ふと思いついたように片眉をあげる。
「今から駅に行っても、もう終電には間に合わないが、家はこの近所なのか?」
「あ……」
自分が何者なのかを知らない瞬は、当然のことながら、彼への返事に窮することになった。
瞬のその様子を見て、警官は この未成年の身柄の保護の必要性を認めたらしい。
「交番に来なさい。ご家族に連絡して迎えにきてもらおう」
決して高圧的にではなかったが、そうすることが瞬の義務で、彼自身の職務でもあるというような口調で、彼は瞬にそう言った。

「あの……はい……」
自分が何者なのかがわからず、ゆえに自分の帰るべき場所もわからない瞬には――瞬は、自分が善良な市民なのかどうかもわからなかったのだが――警官の申し出はありがたかった。
暗くて危険な場所に一人で佇んでいなくてもよくなるという、その一点だけでも。


瞬が連れていかれたのは、公園の入り口にある小さな交番だった。
そこには瞬を保護した警官より年かさの警官がもう一人いて、彼は、彼の相棒が保護してきた未成年に怪訝そうな顔を向けてきた。
近くに繁華街があるわけでもない交番では、瞬のような客人は珍しかったのかもしれない。

「――の組員が」
「家出人かも――」
瞬をこの場に連れてきた警官が相棒に耳打ちする言葉の切れ端が聞こえてくる。
どうやら自分は、彼等に家出人か何かだと思われているらしい――。
そう察して、瞬は、そうなのだろうかと、彼等の疑いを疑うことになったのだった。
人が『家出人』になるためには、出る“家”がなければならない。
だが、瞬は、自分が“家”と呼べる場所で暮らしていた記憶を全く有していなかったのだ。

「しかし、綺麗な子だ。こんな子が一人でいたら、昼間でも危ないだろう」
瞬があまりに打ちしおれた様子をしていたせいか、年かさの警官の声はどこか気遣わしげだった。
「自己申告では男の子だそうだ」
相棒の報告を聞き、年かさの警官が驚いたように目を剥く。
「それはまた……失礼」
『綺麗な女の子』と言ったわけではなかったのだから謝る必要もなかったのだが、彼は照れ隠しのような笑みを その顔に貼りつけて、交番の入り口の脇にあったスチール製の机に腰をおろした。
その机の脇にある椅子に掛けるように、瞬に手で示してくる。
瞬がその指示に従うと、ペンを手にした彼は、一度大きな咳払いをしてから瞬に尋ねてきた。

「名前は」
「瞬」
「苗字は」
「わ……わかりません」
「わからない?」
瞬の答えを聞いた年長の警官が眉根を寄せる。
それは確かに奇妙な返答だったろう。
200年も昔なら それで通ったかもしれないが、現代は苗字必称の時代なのだ。

「下の名は名乗れるのに、苗字だけわからないっていうのか?」
現代人として当然の疑問を、彼は瞬に投げかけてきた。
瞬が頷くのと、相棒の横でパソコンを操作していた若い方の警官が、勢いよくキーボードのエンターキーを叩いたのが ほぼ同時。
彼は、何気なく立ち寄ったフリーマーケットで思いがけない掘り出し物を見付けた通行人のように気負い込んだ声をあげた。
「あったあった。これじゃないかな。瞬。16歳。つい2時間前に捜索願いの届出が出ている」

「え……?」
『瞬という名の人間に捜索願いが出ている』という事実に その場で最も驚いたのは、他でもない瞬自身――『瞬』の名を冠した人物――だったかもしれない。
相棒と瞬に見えるようにパソコンのモニターの向きを変えて、若い警官は該当のデータを二人に示してくれた。
「なんと、依頼主は城戸沙織。あのグラード財団の総帥様だ。最重要マークつきで都内全域の警察にデータがまわっている」

いったい この未成年者は何者だと疑うような目で、警官たちは瞬を見詰めてきたのだが、瞬はその答えを持っていなかった。
むしろ、瞬こそが その答えを知りたかった。
なにしろ 瞬は、『城戸沙織』という名に全く聞き覚えがなかったのだ。
そして、瞬の中には、どういうわけか『自分を捜している人などいるはずがない』という確信があった。
だから瞬は、その捜索願いが出ている『瞬』という人間と自分は別人だと思ったのである。
もちろん、二人の警官にも、瞬はその旨を伝えた。

が、若い警官は、
「一応、連絡入れてみるわ」
と言って、パソコンから瞬のデータを送信することをしたらしい。
そんなことをしても無駄なのにと思いながら、瞬は、パソコンのキーを操作する警官の指先をぼんやりと見詰めることになったのだった。






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