瞬が連れていかれたのは、瞬が保護されていた交番から車で10分ほどのところにある邸宅だった。
場所は、確実に都内。
にもかかわらず都会の喧騒が全く感じられないのは、その邸が大きな通りから外れたところに建っているせいもあったろうが、それ以上に、邸の敷地の広さのせいであるようだった。
その邸の庭には、小さなものではあったが、『林』と呼んでいいような木立さえあったのだ。
もちろん、洋風のその家屋自体も、かなりの規模を有している。

「こんな……」
自分がこんなところに暮らしていた人間だとは思えない。
やはり自分は誰かと間違われているのだと、瞬は思ったのである――思わないわけにはいかなかった。

その邸宅は、正面玄関を入ったところに 広いエントランスホールを構えていた。
ホールを囲むように幅の広い階段が二つあって、それらが それぞれに 二階に続いている。
瞬がホールに足を踏み入れて まもなく、車の音を聞きつけたのか、その階段を転がるような勢いで駆け下りてきた少年が一人いた。
瞬と同い年くらいの その少年は、いったいここはどこのお城なのかと呆然としていた瞬に、『はじめまして』や『こんばんは』の挨拶もなく、いきなり飛びついてきた。

「瞬ー! どこに行ってたんだよ! 心配したんだぞ!」
「あ……」
彼も“瞬”を知っているらしい。
だが瞬には、瞬をここに連れてきた金髪の青年同様、彼も“見知らぬ人”だった。
その見知らぬ少年の、あまりに親しげな態度に、瞬は困惑してしまったのである。
「おまえみたいなのが、こんな夜中に外をふらふらしてたら危ないだろ! 絶対 変なにーちゃんに目をつけられるに決まってんだから。そんな奴でも 半殺しの目に合わせたりなんかしたら、前科者になるのはおまえの方なんだからな!」
瞬の戸惑いなど意に介したふうもなく、少年が頭から瞬を叱責してくる。

「半殺しだなんて――」
いったい彼は何を言っているのかと、瞬は疑うことになったのである。
人を半殺しにするようなことが、自分にできるはずがない。
自分がそんな力を持っていないことは、他の誰でもない瞬自身がいちばんよく知っていた。
現に、先程 公園で怪しげな男に腕を掴まれた時、瞬はただ震えていることしかできなかったのだ。

訳のわからないことをわめいている少年に少し遅れて、また別の家人――今度は長髪の青年――が瞬の前にやってくる。
彼は、この家で最初に瞬を迎えた少年よりは はるかに落ち着いた様子をしていたが、瞬に『はじめまして』も『こんばんは』も言わない点では、先の少年と同じだった。
もちろん彼も、瞬には“知らない人”である。

「瞬。よかった。こんな時刻までどこにいたんだ。小宇宙が全く感じられないから捜しようがなくて――興奮して暴れる氷河をなだめるのに一苦労だったんだぞ」
長髪の青年の言葉を受けて、金髪の青年がむっとした顔になったところを見ると、瞬をここまで連れてきた外人の名は『氷河』というらしい。
だが、『コスモ』というのは何だろう――?
見知らぬ人たちに訳のわからないことを言われ続けて、瞬は戸惑うことしかできなかったのである。
何より、自分は自分が何者なのかを知らないというのに、見知らぬ他人たちが自分を知っているという、この状況が不安で落ち着かない。
見知らぬ人たちの親しげな態度が瞬には不可解で、それは瞬の中に恐怖に似た感情をさえ運んできた。

「あの……」
ここで 『あなた方はどなたですか』と尋ねたなら、彼等はどういう反応を示すのだろう。
怒りか失望か――いずれにしてもそれは、彼等にとっても瞬にとっても楽しく快いものとはならないに違いない。
それがわかっていても――瞬は、彼等に彼等の素性を尋ねないわけにはいかなかった。
意を決して瞬が口を開こうとした時、その場に初めて女性が登場してくる。

「瞬……見付かって よかったわ」
彼女は、『女性』というより『少女』と表する方がふさわしい年齢――どうみても10代――だったのだが、見た目の年齢にそぐわない威儀をその身に備えていて、それが瞬に 彼女をただの少女と思わせることをしなかった。
彼女のすぐ後ろに、何かに腹を立てているような険しい顔をした青年が立っている。
彼は、だが、その峻厳な第一印象をすぐに消し去った。
そして、最初の印象とは対照的な優しい眼差しを瞬に向けてくる。

「瞬。無事か」
どうやら彼も瞬を知っているらしい。
瞬は、もう何が何やらわからなくなってしまったのである。
何を言うこともできず、ただその場に立っているだけで精一杯――取り乱さず、逃げ出さずにいるだけで、瞬は精一杯だった。
漆黒の髪の青年を従えた少女――ということにしておこう――は、瞬の無言と無反応を怪訝に思ったらしい。
瞬をここに連れてきた金髪の青年が少女の傍らに歩み寄り、何やら低い声で耳打ちをする。
少女は、驚いたように目をみはった。

「忘れている? 自分のことも?」
あれ・・のショックのせいかと」
“氷河”が少女に浅く頷き、そして、少女の背後に立つ男を睨みつける。
睨みつけられた青年の方は、だが、自分が彼に睨みつけられたことにも気付いていなかっただろう。
『瞬が自分のことも忘れている』という事実を知らされるや、彼の視線は“自分のことも忘れてしまった”瞬の上に据えられ、他の何をも見ようとはしなかったのだから。

彼だけではない。
その場にいた すべての人間の視線が瞬に向けられ、それらは一様に驚きの色を帯びていた。
視線の集中砲火を浴びて、瞬は、ひどく いたたまれない気分になり、それでなくても縮こまらせるようにしていた身体を更に萎縮させることになったのである。
そんな瞬を見て、その場で ただ一人の女性が小さな溜め息を洩らす。
「もう2時近いわ。とにかく今夜はもう休ませて……明日 病院に連れていくことにしましょう」
彼女の言葉に その場に集まっていた全員が頷いたところを見ると、さほど歳がいっているようには見えないのに妙な貫禄をたたえている この少女が、この邸と彼等の主であるらしい。
瞬が何者であるのかを知っているとおぼしき者たちが皆、彼女の決定に異議を唱えないのであるから、自分が何者であるのかを知らない瞬はなおさら、彼女の決定に従うしかなかった。






【next】