エントランスホールで、メイドが一人、冬眠から目覚めたばかりの熊のように ドアの前を行ったり来たりしている。 星矢が彼女の奇妙な様子に気付いてからだけでも既に三回、彼女はドアの横にあるモニターを覗き込んで大きな溜め息をついていた。 「どうかしたのか?」 ここは、グラード財団総帥にして女神アテナでもある人物の私邸。 ごく稀に、礼儀正しいとはいえない客人がやってくることもある。 たとえば、巨万の富を有する者は悪事を働いているに違いないと決めつけた、自称『弱者の味方』。 たとえば、グラード財団を民間の株式会社と勘違いした、自称『株主総会とりまとめ役』、他称『総会屋』。 たとえば、女神の命を消し去ることで地上の支配権を手に入れることができると思い込んだ邪神の手先。 そういった危険な客人がやってきたのかと懸念して、星矢は彼女に声をかけたのである。 星矢の声に気付いて後ろを振り返ったメイドの顔は、危険な客人の対応に苦慮しているにしては、妙に明るく輝いていたが。 星矢に声をかけられたメイドは、なぜか その頬を尋常でなく上気させて、彼女が困っている事情を星矢に知らせてきた。 「アポイントメントはとっていないそうなんですけど、お嬢様に会いたいとおっしゃる方がいらしているんです」 どうやら彼女が対応に苦慮していた相手は、聖闘士の力で解決を図らなければならないような人物ではないらしい。 星矢は少し気が抜けて、両の肩を軽く そびやかした。 「それがどうかしたのか? よくあることじゃん。アポとってから出直せって言えば」 「無理です」 「なんで」 「だって、滅茶苦茶 素敵な方なんですよ。あの方に『出直せ』なんて、私、絶対言えません。かといってドアを開けてしまった、私、どうしたって あの方をお屋敷の中にお通ししてしまうし、そんなことをしたら辰巳さんにお叱りを受けるし、でも、本当に素敵な方で――」 「……」 支離滅裂なのか論理的なのかの判断が難しいメイドの訴えに、星矢は唖然とすることになったのである。 彼女は、仮にもグラード財団総帥の私邸に雇用されているメイドである。 身元調査は言うに及ばず、秘書検定準1級以上もしくはサービス接遇検定1級以上の資格を求められ、独自に作成された適性試験をクリアして初めて この屋敷に迎え入れられた、それなりの常識と品格を備えた女性のはずだった。 もちろん、それは、城戸邸の使用人たちが 人間の魅力に無感動であるということではないのだが、それにしても彼女の態度は 城戸邸のメイドのそれとしては奇異なものだった。 星矢自身は意識したことがなかったが、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちは皆、それぞれに並み以上の容姿を有しているというのが一般的な見方らしく、それが真実であるならば、城戸邸のメイドたちは誰もが美形を見慣れているはずなのだ。 にもかかわらず、彼女の尋常でなく興奮した様子。 いったいどんな男前がやってきたのかと、星矢は、らしくもない興味を その胸に抱くことになったのである。 「わかった。俺が追い払ってやる」 「そんなぁ」 城戸邸のメイドがそんなふうに、まるで“躾のなっていない”婦女子のような嬌声を響かせるのを、星矢は初めて聞いた。 城戸邸のメイドに求められているのは、文部科学省後援の秘書検定準1級であって、某民間企業が実施しているメイド検定ではないはずなのに――と疑いつつ、星矢は正面玄関のドアを押し開けることになったのである。 青銅のバロック風レリーフが埋め込まれたドアを開け、問題の客人の姿を見た途端、彼を追い払うことは一介のメイドには到底不可能なことだったのだと、星矢にはすぐにわかった。 客人の歳の頃は40代後半。 星矢より頭二つ分は背が高く、しかも非常に姿勢がよい。 均整の取れた その体躯が、彼を実際の年齢より若く見せていることも考えられたから、あるいは彼は既に50代に入っているかもしれない――と星矢は思った。 今時 新鮮な三つ揃いで、着衣の上からでも見事に鍛えられていることがわかる体躯を包んでいる。 彼は 一見したところは“上品な紳士”で、城戸邸が迎える客人として見るならば 全く違和感がなく、その点ではごく普通の訪問客と言えた。 確かに、メイドの言う通り、少々 顔の造作が整いすぎている感はあったが、それは異常なことでも悪いことでもない。 星矢を驚かせたものは、だが、彼の申し分のない外見ではなく、その鍛えられた身体から発せられる小宇宙だったのである。 あまりにも強大な小宇宙。 彼の小宇宙は黄金聖闘士をすらも軽く凌駕していると、星矢の感性は迷いもなく判断した。 この小宇宙に匹敵する小宇宙に、自分は接したことがあったろうかと、星矢は自身に問いかけてみたのである。 答えはすぐに出た。 『ない』 少なくとも、星矢が出会ったことのある聖闘士の中にはない。 では彼は人間ではなく神なのかという疑念が湧いてきたが、彼の小宇宙は間違いなく人間のそれだった。 おそらく彼はアテナの聖闘士の敵ではない――彼の小宇宙からは害意も敵意も攻撃の意思も全く感じられない。 強大至極でありながら、彼の小宇宙の感触は極めてソフトだった。 金髪碧眼。 サイドの髪は綺麗に後ろに撫でつけてあって、同じ金髪男でも、彼は どこぞの青銅聖闘士とは違い、相当に身なりに気を配るタイプの男らしい。 会ったことはない。 だが、どこかで見たことがある男――。 「おまえ……いったい何者だ」 星矢の アテナに面会を求めるアポなし男は、だが、その無礼に腹を立てた様子も見せず、にこやかな微笑を星矢に投げかけてきた。 そして、 「星矢、久し振りだな」 と言った。 |