「瞬を失ってから20数年間、私は一人で生きてきました。私の死は瞬の望みではなく、私はクリスチャンでもあったので、自ら死を選ぶわけにはいかなかったのです。瞬を失った私が、一人でも生きていられたのは、アテナの聖闘士としての務めがあったからと言っていい。戦いの中に身を置きさえすれば いつか自分にふさわしい死に場所が与えられるだろうと、それだけを願って、私は戦い続けた。しかし、私はどうやら少々強くなりすぎたらしく、なかなか死ぬことができなかったのです。そうしているうちに、時間移動を実現する装置が作られたという報が私の許に飛び込んできた。作ったのはグラード財団が設立した総合科学ラボトリーですよ。この時代から十数年後に設立されるラボです。私は、その試作品のテストパイロットを志願した。生きている瞬に、もう一度会うために」 そう言って彼が微笑んだのは、彼の望みが叶ったから――だったのだろうか。 しかし、瞬の仲間たちは、彼の微笑に付き合ってやることはできなかった。 笑えるはずがない。 そして、言うべき言葉も――星矢たちには思いつかなかった。 「私に、このクラシックな服を用意してくれたのは、30年後のあなたですよ、アテナ」 「――見たことのない素材ね」 「そ……そのタイムマシンってのはどこにあるんだよ」 「私の身体の中だ。この右の肩に埋め込まれている」 「円盤や自動車じゃねーのかよ……!」 星矢は、“瞬の死”以外のことなら、30年後の氷河が語る どれほど奇天烈な話も素直に信じる気になっていた。 とにかく、今は、“瞬の死”以外のことを話し、考えたい――どうでもいいことを話していたい。 その思いが、星矢の意識を“どうでもいい話題”に向かわせていた。 「タイムマシンってのは、回転運動にしても直進運動にしても光速超えるくらい加速して、その勢いで時空を歪ませるシロモノなんじゃねーの?」 「それは未来に向かう場合の理論だ。30年後には否定されている理論だが」 あえて仲間の死を語ろうとしない星矢の気持ちを察してか、未来からやってきた男は、星矢の“どうでもいい話題”には比較的 丁寧な答えを返してくれた。 「私の中に埋め込まれたタイムマシンは、私の脳に直結している。無論、コードレスでね。1週間、私が私の意思で元の時代に戻るためのスイッチを入れなければ、私は自動的に元の時代に呼び戻されることになっている。たとえ死体になっていても。ついては、アテナ。1週間、私がここに滞在することをお許しいただきたい」 「それはもちろん構いませんが――」 「沙織さん!」 沙織のほぼ即答に、氷河が鋭い声で異議を唱える。 星矢は、そんな氷河にこそ異議を唱えることになった。 「なんで反対するんだよ。おまえだぜ。おまえは、おまえが路頭に迷うことになってもいいのかよ」 「俺だからだ。こいつの目的はわかっている。瞬だ」 「最初から、そう言ってるじゃん。瞬に会いたくて わざわざ過去にまで やって来たんだって」 「俺が瞬に会って、『お会いできて嬉しい』だけで済むとでも思ってるのか。絶対 済まない」 「……」 自分自身に対する氷河の 氷河が心配していることは、星矢には非常に馬鹿げたことに思えた。 自分の価値観を自分以外の人間に当てはめて判断し、結果として人を貶めるのは、決して褒められた行為ではない。 瞬の価値――魅力と言ってもいい――が誰に対しても 自分に対するのと同じように作用すると決めつけているから、氷河は見苦しいほど独占欲が強く 焼きもち焼きなのだ。 「こちらの氷河サンが おまえの瞬を押し倒すとでも言うつもりかよ? おまえじゃあるまいし」 星矢は、氷河の馬鹿げた懸念を一蹴した。 そうしてから、ある重要な事実を思い出す。 「……おまえなんだっけ」 この、一見した限りでは常識と分別を備えた大人に見える人物の名は“氷河”なのだ。 その事実を思い出した途端、“氷河”をよく知る仲間の一人として、星矢は、氷河の懸念を笑い飛ばしてしまうことができなくなったのである。 一人の男の中に それなりの常識と分別を備えさせるのに、30年という時間は十分な時間だと思う。 だが、その時間をもってしても、氷河を氷河でなくすることはできないだろうとも思う。 その上、50代の氷河は若い自分の激昂を楽しんでいるのか、氷河の絶対の信頼を はっきり否定する素振りを見せない。 氷河が30年かけて その身に備えたものは、分別と常識ではなく人の悪さだったのではないかと、星矢は疑うことになったのである。 この屋敷での滞在許可をすんなり手に入れたかったなら、言葉の上でだけでも 氷河の信頼を否定してみせればいいのに、彼はあえて それをしないでいるのだ。 人の悪い氷河は、だが、その人の悪さを完璧に隠し、分別と常識に縁取られた微笑を その顔に浮かべ続けていた。 その視線が、激昂している若い氷河にではなく、氷河の激昂に困ったような顔をしている瞬に向けられていることに気付き、星矢は実に複雑な気持ちになったのである。 仮にも氷河の名を冠した男が、瞬に関することで 嘘や冗談を言うはずがない。 瞬の死は、おそらく事実なのだ。 あと数年後に、瞬の死が訪れるということは。 彼が未来からやってきた氷河だということが事実なのであれば。 「私が許可すると言っているの。異議は認めません。それよりも、瞬が死ぬというのはどういうことなの。どういう経緯でそんなことになるの。それを教えてちょうだい。その経緯が事前にわかっていれば、その事態を回避するための手が打てるわ」 「回避……そーだ。それを聞いてりゃ、瞬を死なせずに済むんだ!」 アテナの言葉が星矢に希望を運んでくる。 星矢は気負い込んで、30年後の氷河の方に身を乗り出した。 「いずれ話します。こちらへの滞在と、私が自由に瞬に接することへの お許しをいただけましたら。――彼から」 自分自身を“彼”と呼び、にこやかに人の悪い笑みを浮かべて、30年後の氷河は、30年前の“彼”を挑発した――おそらく。 「瞬に自由に接するだとっ!」 呆れるほどの素直さで その挑発に乗る氷河を目の当たりにし、星矢は本気で頭を抱え込みたくなったのである。 今 彼の機嫌を損ねて、彼に帰られてしまったら、アテナの聖闘士たちは 瞬に関する非常に重大な情報を手に入れ損なうことになる。 その情報は、誰よりも氷河にとって重大かつ重要な情報になるものだというのに。 「氷河、落ち着けってば。だから、こちらさんは、おまえの瞬を押し倒すなんて言ってないだろ」 「少し頭を冷やしたらどうだ。今 彼に消えてしまわれたら、俺たちはおまえの瞬の身を守る術を手に入れ損なうことになるんだぞ」 「瞬の身を守りたいから、俺はこいつを瞬から遠ざけたいんだっ」 星矢と紫龍が懸命になだめても、氷河の自分自身に対する信頼は揺らぐ気配を見せない。 そんなふうに自信満々の(?)氷河に困ったような目を向け、瞬は自分の身体を縮こまらせていた。 そんな瞬を見やり、30年後の氷河が懐かしそうな口調で呟く。 「初めての恋。瞬に恋をして、瞬に好きだと言ってもらえて、それが最後の恋になるとも知らず幸福だった頃。生きて生気に輝いている瞬にもう一度会いたいと、それだけを願って、私はこの時代を選んだのです」 それはアテナへの説明だったのか、あるいは瞬に語り聞かせるための言葉だったのか――。 怒りのあまり、すっかり凶暴化していた氷河が、(未来の)自分の告白を聞かされて、少しだけ大人しくなる。 「私は若く愚かで無鉄砲で、その愚かさのために瞬を失ってしまった。その代償が、20数年の孤独と喪失感だった。私はもう一人で生きていることには耐えられない。せめて、生きている瞬の姿を 許される限り見詰めていたい――」 「氷河……さん……」 30年後の氷河の言葉と眼差しは、瞬の胸に強く響くものだったらしい。 瞬の瞳が切なげに潤む。 そうして瞬は、氷河の意思を捻じ伏せることのできる この世で唯一の力を発動したのだった。 もちろん、それは腕力でもなければ、小宇宙の力でもない。 少し甘えの響きの混じった、ただの優しい声だった。 「1週間くらい いいじゃない。ね、氷河」 「し……しかしだな……」 「寂しがりやの氷河が何十年も一人で……そんなの、僕こそが耐えられないよ」 無駄な抵抗を続けようとする氷河に、瞬がとどめの一撃とばかりに、その瞳から涙の雫を零す。 「う……」 こうなると、氷河は諸手を上げて降参するしかなかった。 “氷河”は 瞬の涙には逆らえないのだ。 “氷河”というモノは、そういうふうにできている。 「き……貴様が瞬に自由に接するのは 貴様の勝手だが、瞬には貴様から自由に逃げる権利もあるのだということだけは忘れるな……!」 忌々しげに、氷河は、彼にできる最大級の譲歩をしてみせた。 こうなることを見越していたらしい沙織が、不愉快そうに腕を組んでしまった氷河に軽い一瞥を投げ、もう一人の氷河に向き直る。 彼女のその瞳には 憂わしげな色がたたえられていた。 「あなたが話してくださったことが事実なら、あなたは、望むと望まぬとにかかわらず、いずれ元の時代に戻ることになるのでしょう? あなたに与えられる1週間が、元の時代に戻ってからのあなたを更に苦しめることにならないとは言い切れないと思うのだけれど……」 「私は耐えてきた。これからも耐え続ける。ただ、瞬を失った喪失感と悔いに耐えるには、幸福だった頃の思い出が必要なのですよ、お若いアテナ」 「……未来の私は、それを許したのね……」 未来の自分に言及することは、神であるアテナにも少々複雑な感懐を抱かせるものだったのだろう。 そういう顔をした若き女神に、歳を経た人間である氷河が微かに頷く。 「今のあなたと全く同じことを懸念していましたが、私があえてと望むと、長年の私の功績に免じて お許しくださいました」 「そう……」 それで沙織の心は決まったらしい。 彼女は彼女の聖闘士たちに、彼等の女神の決定を宣言した。 「わかりました。そういうわけだから――氷河、瞬、彼と仲良くしてあげて」 「仲良く? こんなおっさんとか !? 」 アテナが彼女の聖闘士に下す命令が、よりにもよって『仲良くしてあげて』とは。 氷河が不愉快そうに彼の不満を吐き出し、瞬は、氷河が口にした失礼な呼称に困惑したように 氷河の腕を引く。 氷河がどれほどあからさまに不満を表明しても、女神の決定は下ったのだ。 氷河が何を言おうと、それはゴマメの歯ぎしりでしかない。 懸命に無駄な抵抗を続ける氷河を、星矢がなだめにかかる。 「おっさんだから安全なんじゃん。おまえと違って紳士みたいだし」 「おっさんでも じいさんでも、俺は俺だ。俺が瞬にとって安全な男であるはずがない!」 「おまえってさ……おまえって、ほんとに自分をよく わかってるよな……」 どうして氷河は、こういうことでだけ賢明なのか。 氷河は洞察力と判断力の使いどころを間違っていると、星矢は思わないわけにはいかなかった。 「では、部屋を用意させます。失礼ですが、お着替え等は」 「30年も経つと、色々なことが進歩しておりまして、1週間分の着替えがこのポケットに入っています。万一の時のために食料も」 女神アテナの下した決定は、同時に、この屋敷の女主人の決定でもあった。 その女主人が、30年後の世界からやってきたという人物の その言葉に僅かに目を見開く。 それは、『30年後の世界では誰もが頭に竹トンボをつけて空中を散歩している』などという話より はるかに、信じることの難しい彼のタイムトラベル話に信憑性を持たせるものだった。 「滞在中、敵の襲撃がありましたら、及ばずながら力を貸させていただきます。口だけは威勢のいい こちらの氷河君の1000人分くらいの仕事はこなしてみせますよ」 「だろうなー。この小宇宙。ハーデス、ポセイドンも指1本で倒せそうだぜ」 力の差があまりに大きいと、人は自分の非力を指摘されても腹も立たないものらしい。 彼の発言は、とりようによっては、氷河のみならず、 それどころか、星矢は、彼が初めて接した驚異的な小宇宙にわくわくしているようですらあった。 なまじ彼の力の強大さがわかるせいで 未来の自分に反論できない氷河は、星矢とは対照的に盛大な仏頂面を浮かべている。 「30年後の聖闘士の敵は、私のこの小宇宙をもってしても容易に倒せないほどの強敵なのだ。精進してくれたまえ」 「うへ……」 星矢の素直な感動は、未来の氷河の持つ強大な小宇宙が いつかは自分の身にも備わるという希望のためでもあったろう。 30年後の氷河の激励に顔をしかめながらも、星矢の瞳はきらきらと明るく輝いていた。 過去の自分と違って どこまでも素直でストレートな星矢の反応に微笑んでいた人が、再び ゆっくりと その視線を瞬の上に戻してくる。 何を言うでもなく、彼は、ただ憧憬と郷愁のこもった眼差しで、彼の失われた恋人の姿を見詰め続ける。 その瞳が、自分の見慣れた人の瞳と全く同じ色をたたえていることが、瞬の胸を切なく締めつけた。 |