「あの男には絶対 近付くな」 と、氷河は くどいほど幾度も瞬に釘を刺してきたのだが、さすがに それは、 「彼が不自由を感じることのないように、気を配ってあげてね」 というアテナの指示に優先するものではなかった。 だが、もしアテナのその指示がなくても、結局 瞬は彼に近付かないわけにはいかなかっただろう。 彼は未来から来た人、氷河のこれからを知っている人、そして、氷河の幸と不幸を左右する力を持っている人と言っていい存在なのだ。 「氷河さん」 瞬が氷河の目を盗んで彼への接触を試みたのは、その翌日のこと。 城戸邸の庭を一望できるサンルームの椅子に腰をおろし、何ということもない緑を真剣に眺めている彼の横顔を怪訝に思いつつ、瞬は彼の名を呼んだ。 「瞬……」 振り返った彼の視線を真正面から受けとめただけで、瞬は軽い目眩いに襲われることになったのである。 小宇宙の力なのか、積み重ねられた思いの深さ強さのせいなのか――瞬は、本当に気が遠くなりかけた。 懸命に意識を保って、瞬が彼の前に立つ。 「あの……僕が氷河を残して死ぬというのは本当ですか。僕は あと何年――」 それは、瞬にとっては言いにくいこと、訊きにくいことだった。 そして、 だが、瞬は、それを知っておかなければならなかったのだ。 他の誰でもない、氷河のために。 「今は言えない」 彼が、微かに首を横に振る。 そうしてから彼は、少し つらそうな笑みを、その目許に刻んだ。 「言ってしまっていいことなのかどうか、私は決めかねているんだ。それを知ることが、君を苦しめ不幸にしたらと思うと──」 幼い子供に言い聞かせるような彼の声音に、今度は瞬が首を横に振る。 「僕は、そのことで苦しんだり不幸になったりはしません。僕は死ぬつもりはないから。教えてください。僕、絶対に死ねないの。僕の氷河は寂しがりやで、僕がいなくなったらきっと――」 「私のようになってしまうから?」 「……」 彼は、それを嫌味や皮肉のつもりで言ったのではないようだった。 ただ、彼は気付いていたのだ。 自分が、瞬の望む“30年後の氷河”の姿を有していないことに。 「あなたは素晴らしい方だと思う。その小宇宙の力は本当にすごいと思います。でも、僕は――」 「君の氷河には、私のように強くならなくても、甘ったれで我儘で おめでたいほど幸せな男のままでいてほしいと」 「……僕はただ、僕の氷河に あなたのように寂しそうな目で僕を見てほしくないだけで……。いえ、あなたのおっしゃる通りなのかもしれません。僕は氷河に幸せでいてほしい。強くならなくてもいいから、幸せでいてほしいの」 「私の瞬も、そう考えて、私を甘やかしていたんだろうか……」 その果てにできたものが今の自分だと、強大な小宇宙を持った人が、言葉にはせず 瞬に知らせてくる。 瞬は返す言葉を見付けられず、唇を噛みしめた。 「だが、瞬。それはよくない。君の氷河のためにならない。結果的に君の氷河を不幸にする。 瞬を責めるつもりはないらしく、強くなってしまった氷河の声音は優しいものだった。 だが、彼の語る言葉の内容は、決して優しいものではない。 「し……死にさえしなかったら、僕が氷河を――」 『僕が氷河を守るから!』と、瞬は言うつもりだった。 瞬がその言葉を最後まで言ってしまうことができなかったのは、もし その言葉を聞いてしまったら それを屈辱と感じるだろう人が、自分たちのいる場所に近付いてきていることに気付いたからだった。 声にしかけていた言葉を 瞬が呑み込むのと、氷河が血相を変えてサンルームに飛び込んできたのが ほぼ同時。 『言ってしまっていいことなのかどうか、決めかねている』ことを言う機会が失われたことに 間がいいのか悪いのか――結託して自分の決意の遂行を妨げようとする二人の氷河に、瞬は少しだけ恨みがましい思いを抱くことになったのである。 しかも、『氷河の幸せを守りたい』の一心で その場にいた瞬を責めるように、氷河が口にする言葉は、 「瞬、やめろ! そいつに近付くな。話をするな。こいつはきっと、おまえの死を回避する方法を教えることに交換条件を持ち出す。俺と同じ下種だ」 ――という、失礼千万なものなのである。 瞬は溜め息を禁じ得なかった。 「氷河。氷河さんはそんなこと言ったりしないよ」 「こいつは俺だぞ。俺にはわかる!」 「……」 氷河は確信に満ちて そう言うが、瞬は、氷河自身よりも氷河を知っているつもりでいた。 “氷河”は、そんなことはしない。 “氷河”は、そんなことを言ったりはしないのだ。 そんなことを言えるくらいなら、氷河は、 『俺を受け入れても、おまえには何の得もないぞ。きっと俺だけが満足して、俺だけが幸福になるだけだ。おまえはそれでもいいのか』 などという不器用極まりない求愛をしたりするはずがなかった。 氷河が、氷河の幸福と氷河の満足をくれると言うから、瞬は彼を受け入れたのだ。 それを与えてくれる恋人こそが、最高の恋人だろうと思ったから。 氷河は彼が約束したものを瞬に与え、瞬を幸福にしてくれた。 あの時の自分の言葉を氷河は忘れてしまったのだろうかと、瞬は、彼の記憶力を疑うことになったのである。 「氷河、自分が何を言ってるか、ちゃんとわかってる? “氷河”が僕にそんなこと言うはずが――」 「では、ご期待に添うことにしようか」 どう考えても、二人の氷河は、瞬が進もうとしている道を阻もうとしている。 あるいは、彼等は、瞬にものを言わせまいとしているのだ。 繰り返し彼等に発言を中断させられて、瞬にはそうとしか思えなくなり始めていた。 30年後の氷河が、突然 真顔になって、掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がる。 彼は、氷河の目の前で、これみよがしに瞬の手を取ると、 「君の死がどんなものだったのかを教えてほしかったら、私に一夜の夢を」 と言った。 もともと彼は、瞬の見知った氷河とは異なり、含みのある微笑しか浮かべない人物である。 彼の一見 深刻で真面目に見え 聞こえる表情や声が、作られたものではないとは言い切れない。 だが、それが作られたものでも、あるいは嘘でも、あるいは悪ふざけでも、 『言ってしまっていいことなのかどうか、決めかねている』ことを『言うべきではない』と決めたからこその方便なのかもしれないと思いはしたのだが、それでも、それは、瞬にとって、“氷河”の名を冠する男が口にしていい言葉ではなかったのである。 瞬の知っている氷河は、瞬の前では 驚くほど誠実で、卑屈と言っていいほど謙虚で、そして、決して自分の損得を考えず、無防備なほど正直な男だった。 “氷河”は、方便としてでも そんなことは言わない。 瞬は、“氷河”と同じ姿をした、だが“氷河”ではない人の手を振りほどき、首を横に振って後ずさった。 そして、自分の氷河の背後に逃げ込む。 瞬は、氷河には、たとえ何があっても こんな嘘を言えるほど強い大人にはなってほしくなかった。 |