あの人は僕の氷河じゃない。別の人だ――。
そう思いはするのだが、だからと言って気にしないでいることもできない。
“瞬の死”が“僕の氷河”を“別の人”に変えてしまうほど 氷河にとっての重大事になるというのなら、その真相を知らなければならないと思う。
そして、できることなら、その死を回避したいとも思う。
誰よりも氷河のために。

知ってはならぬ人間が 知ってはならぬことを知ったために、世界の何かが狂ってしまうのではないか。
数年後に起こる死を回避することができたとしても、そのせいで別の悪い事が起きてしまうのではないか――。
そんなことを考えて、知ることの是非を悩み、知ることを恐れている段階では、もはや なかった。
だが――。

「すまん……。おまえが俺のために迷っていることはわかっている。俺は、おまえが死ぬことには耐えられない。だが、おまえが俺以外の奴に触れられるのも、おまえが あんな卑劣なことを言う奴を気にかけていることにも耐えられない──耐えられないんだ」
氷河にそう訴えられてしまうと、瞬は氷河を抱きしめて、
「大丈夫。僕が氷河を苦しませたり悲しませたりするようなことを、これまで一度でもしたことがあった? 僕がそんなことするわけないでしょう」
と言って、その髪を撫でてやるしかなくなるのだ。
氷河の幸福と満足。
それだけが、瞬の欲しいものだったから。

『私の瞬も、そう考えて、私を甘やかしていたんだろうか……』
『だが、それはよくない。君の氷河のためにならない。結果的に君の氷河を不幸にする。あれ・・は、自分から試練を求めていくくらいで ちょうどいいのだ』
別の人になってしまった氷河の言葉が頭をよぎったが、彼の真っ当な助言は、瞬には何の意味も持たないものだった。
そんなことはわかっている。
わかっていても、氷河には 苦しんでほしくないのだ。

彼が“現在”にいられる最後の一日。
迷いあぐねていた瞬が意を決したのは、その最後の一日も半分以上が過ぎてからのことだった。
「僕が あなたの条件を呑んだら、そうしたら、あなたは本当に僕が死ぬことになった経緯を教えてくださいますか」

その日も、彼は庭に出ていた。
豊かな緑と夏の陽射しが、くっきりした輪郭で闇のように黒く濃い影を落とす世界。
人の心――愛情や思い遣りも こんなものなのかもしれないと、瞬は思ったのである。
それらのものは、強ければ強いだけ、深ければ深いだけ、濃い影を伴うものなのかもしれない――と。
瞬の決意に、彼は、
「君の氷河が嘆くよ」
という答えを返してきた。

が、瞬は動じなかった。
氷河の嘆きが 闇のように黒く濃い影を生まないように――氷河の嘆きを やわらかな春の陽射しが作る 薄くぼんやりとした影にしてしまうために、瞬は彼の許にやってきたのだから。
「僕は氷河に憎まれても嫌われても構わないんです。それには耐えられる。でも、僕の死が――たとえ冗談でも あんな交換条件を持ち出さずにいられないほど 氷河を追い詰め、苦しめるのだとしたら……氷河がそんなふうになるのは嫌。僕は耐えられない。氷河があなたと同じ苦しみを苦しまずに済むのなら、僕は何でもする……!」

瞬の訴えに、彼は何も答えてはくれなかった。
喜んだ様子も憤った様子も見せず、正しく“無反応”。
そんな時だというのに、瞬は、彼と“氷河”の違いをまた一つ見付け出していた。
瞬の氷河はいつも、瞬と対峙した時にはいつも その顔を僅かに俯かせるようにしてくれていた。
氷河ではない“別の人”は、彼の視線を彼の目の高さに保ったまま水平に投じるので、瞬には彼の表情を確かめることができない。
いずれにしても “大人”な彼の表情から彼の真意を読み取ることはできないのだから、今 彼の瞳がどんな色をしているのかがわかったところで どうにもなりはしないのだが、それでも彼の表情を確かめられないことは、瞬の心を ひどく焦らした。

「氷河を甘やかすのはよくないと言ったのは あなたでしょう。氷河は自分から試練を求めていくくらいの方がいいんだって。僕はあなたの忠告に従おうとしているだけです。僕の氷河を裏切って、氷河に試練を与えて、氷河に嫌われて──」
「そうすれば、もし君が死ぬようなことになっても、その死が彼にとって 大きな打撃にはならないと?」
「……」

瞬には彼の表情が全く読み取れないのに、彼は瞬の心を見透かしているようだった。
彼の言う通り――瞬は、氷河に試練を与えることを決意して 彼の許にやってきたのではなかった。
瞬が決意したのは、『どうせ甘やかさずにいられないのなら、徹底的に最後まで甘やかしてやろう』ということだったのだ。
生きていることさえできれば――死を回避することさえできれば、甘やかされ続けたせいで強くなれなかった氷河を、“瞬”は守り続けることができるのだから。

あれ・・を甘やかすのはよくないと言っただろう」
瞬の決意を、“別の氷河”が静かな声で諌めてくる。
「そんなふうに、いつも私は瞬に守られていたのだ……」
「僕は――」
彼の悔いはわかる。
彼の警告が正しいものだということも、瞬にはわかっていた。
だが、それは、瞬の心には受け入れられない警告だったのだ。

「どうして甘やかしちゃいけないの! 僕の氷河は、あなたみたいに強くもなければ大人でもないけど、でも、僕にいっぱい幸せをくれたよ! 僕はそんな氷河が好きなんだ。お……親が子供を甘やかしちゃいけないっていうのなら わかる。親は大抵 子供より先に死ぬから。いつまでも子供を守っていてあげられないから。でも、僕は死なない。僕は、いつまでも、最後まで、氷河を守ってみせる。だから、僕は――僕は死ねないんだよ……っ!」
彼の方が正しいことがわかるから、それが悔しくて、瞬の瞳に涙がにじんでくる。
彼は、瞬の悲鳴じみた訴えを聞くと初めて、少しだけ、瞬よりずっと高いところにある その顔を俯かせた。

(え……)
子供の必死を、あの捉えどころのない微笑で受け流しているのだろうと思っていた人は、瞬の予想に反して、その瞳に ひどく苦しそうな色をたたえていた。
声までが苦しそうに、彼の苦渋を瞬に知らせてきた。
「そんな おまえを、じゃあ、いったい誰が守るんだ !? 俺は……俺は、おまえを守り損なったんだぞ……!」
「あ……」
いつのまにか、そこにいるのは瞬の氷河になっていた。
年齢を重ねた氷河の広い肩、たくましい体躯が小刻みに震えている。
「氷河……」

自分とは桁違いに強く大人だと思っていた人の瞳は、耐え難い苦しさのせいで潤んでさえいた。
『俺は、おまえを守り損なった』――それが、彼の悔いで、彼の嘆き。
彼は、瞬の死そのものではなく、彼が彼の瞬に守られるばかりで、瞬を守ってやれなかったことにこそ、苦しみ悔やみ続けてきたのだろう。
彼は、彼の瞬を、彼の手で守りたかったのだ――。

「だ……だめ……。氷河、泣いちゃだめだよ。泣かないで」
見かけがどうでも、その小宇宙がどれほど強大でも、それが氷河で、氷河が苦しんでいるのなら、瞬は彼を抱きしめてやらずにはいられなかった。
いつもと少し勝手が違って、厚みを増した彼の胸は、瞬の腕を彼の背にまわりきらせてくれなかったが、瞬の腕に力が入らない分、氷河が瞬を強く抱きしめてくれた――すがるように抱きしめてくれた。
「氷河は一生懸命だったんでしょ? 命がけで僕を守ろうとしてくれたんでしょ? 大丈夫だよ。僕は わかってるから。僕は怒ってないから。僕は氷河が大好きだよ」
「瞬……」
いつも・・・の氷河・・・が、瞬に慰められた時に いつもそうする通りに、その唇で瞬の唇を覆おうとする。
「大丈夫だよ。何があったって僕は氷河が大好きだから、泣かないで」

「瞬っ!」
その時、もう一人の氷河の声が夏の庭に響かなかったなら、瞬は、いつもと同じように“氷河”の唇を受け入れてしまっていたかもしれない。
もう一人の氷河の声が、いつも通りに その身を氷河に預けそうになっていた瞬の心身に緊張感を運んできた。






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