「あ……」 あとからその場にやってきた氷河の瞳は、異様な冷たさをたたえて青く燃えていた。 おそらく次の瞬間には、氷河は、烈火のごとく怒り狂って、他の男の腕に身を任せている軽率な恋人を“浮気相手”の胸から乱暴に引き剥がそうとするだろう――という瞬の予測は、だが、当たらなかった。 彼は、その瞳を怒りにぎらつかせながら、それでも その場を動こうとはしなかった――それ以上、二人の側に近寄ろうとはしなかった――のだ。 やがて、彼の瞳を燃やしていた炎の勢いが小さくなっていく。 一度 その瞼を閉じてから、氷河は震える声で、呻くように、懇願するように、 「瞬、やめてくれ。おまえは俺が守る。必ず守るから……やめてくれ」 と言った。 「氷河……」 すべてを決めるのは――その権利を有しているのは――瞬だけなのだと、彼はわかっているのかもしれなかった。 『必ず守る』という氷河の言葉を、瞬が信じられるかどうかが、すべてなのだと。 瞬はもちろん、氷河のその言葉を信じたかった。 だが、彼への愛情に負けて 今の氷河の言葉を信じることが、未来の彼を苦しめることにつながるのかもしれないと思うと、瞬は安易に自分の心に従うことができなかったのである。 だが、信じたい。 否、瞬は既に信じていた。 それで氷河の力が及ばなかったとしても、それは氷河が瞬の信頼を裏切ったことにはならない。 「信じてるよ。僕は氷河を信じてる。氷河は僕を守ってくれる。僕は氷河が大好きだよ」 それは、二人の氷河に向けられた、瞬の唯一の答えだった。 “氷河”を信じたせいで死ぬことになっても、“瞬”は少しも不幸ではない。 ただそのせいで氷河が苦しむことになるのなら、それこそが瞬を不幸にするものだった。 人が人を信じることができるのは幸福なことだろうが、信頼が必ずしも幸福だけを生むものとは限らない。 それがわかっているからなのだろう。 望む通りの瞬の答えを手に入れても、若い氷河はその場から動かなかった。 氷河が動かないので、瞬も動けない。 そんな二人の代わりに動いてくれたのは、本来はこの場この時代にいるはずのない人だった。 瞬の肩に置いていた手を下ろし、念の入ったことに、彼はわざわざ一歩分、瞬との間に距離を置くことさえしてくれた。 そして、再び、元の―― 一見したところでは分別と常識を備えた大人の顔に戻り、その姿にふさわしい静かな眼差しで、二人の若い恋人たちを見やる。 「心配しなくても――瞬は死なない。君の瞬は死なない」 「え……」 「私が今の君の歳だった頃、私は30年後の自分になど会わなかった」 「どういうことだ」 氷河がにじり寄るように少しずつ瞬の側に移動して、瞬の手を握りしめる。 そうしてからやっと安心したように、彼は未来の自分に彼の言葉の意味を問うことをした。 問われた氷河は、若い自分のその行動に苦笑した――ようだった。 「私の歩んできた人生と、君の人生とは、全く同じではないということだ。君の未来と人生は、私が歩んだ人生とは違うものになる。皮肉にも、私に出会ったことによって」 まるで事前に用意されていた解説書を読むように、彼の説明には淀みがない。 彼の口振りは、そうなることを見越していた者のそれだった。 「氷河さん……。氷河さんは、もしかして、そのために僕たちに会いに来てくれたの……?」 「あの孤独と後悔と苦しみに耐えるのは私だけでいい」 彼は最初からそのために――タイムパラドックスを逆手にとって彼の運命を変えるために、この前代未聞の冒険に挑んだのだ――おそらく。 だからこそ、どうせ変わる運命なのだから、瞬の死を語る必要もないと、彼は思っていたに違いない。 「で……でも、もし僕が死ななかったら、あなたはこの時代に来なかったはずで、なのに今 あなたがここにいるということは、やはり僕は──」 死ぬのではないか――。 そもそも時を遡るという行為が理論的にあり得ないことなのだから、それを論理で説明づけようとすることに無理がある。 それでも――だからこそ、瞬の懸念は簡単に消え去るものではなかった。 瞬の払拭できない懸念を、 「その点は大丈夫。私をここに運んできたタイムマシンは、科学の力だけでできたものではない。アテナの──神の力が加わって初めてできたものなんだ。科学も理論も超越した力──私や君たちが『愛』と呼んでいるあの力を借りて、私はここに来た。君たちは、まさか、科学や理屈が愛に勝てると思ってはいないだろう?」 「……」 一見 分別と常識を その身に備えた大人が真顔で語る超理論。 氷河と瞬は、もちろん、彼に反駁できる言葉も根拠も持ち合わせてはいなかった。 「これだけですべてが変わるとは断言できないが、君たちが未来を変える意思と力を持っているなら、それは必ず変わるだろう。私の知っている未来が、君たちの未来になるとは言い切れない。誰にも」 「おまえ……」 「今から6年後の夏だ。 「そんなことは貴様に言われなくても――」 忘れられるはずがないではないか。 未来の自分に噛みつくような若い氷河の勢いを、未来から来た氷河は静かな声で遮った。 「では、私は私の瞬のところに戻る」 「あなたの僕は、でも――」 「私の生きている時代には、私の瞬の小宇宙の残り香があるのだ。とても微かなものだが――死してなお、瞬は私を守ってくれている。あの優しい感触が懐かしくなった」 「僕……が……」 この時代の氷河と瞬の運命が変わっても、彼の現実は変わらない。 彼は その時間を既に通り過ぎてしまった。 氷河と瞬にとって未来である時間は、 人は、自分の過去を変えることはできない。 人が自分の力で変えることができるものは、ただ未来だけなのだ。 「……でも、それじゃ、幸せになるのは――二人で幸せになれるかもしれないのは僕たちだけなの……? あなたは、じゃあ、いったい何のために――」 何のために彼はここまでやってきたのか――。 答えは言われなくてもわかっていた。 二人のために――二人の幸せを願って。 神妙な顔になった“二人”に、未来からやってきた人が、彼にしては明るい笑顔を見せる。 「瞬に会いたくて――と言ったはずだ。氷河、一夜の夢の代わりに――最後にキスだけならいいか」 言われた途端に、氷河が瞬の身体を自分の背後に隠す。 「……。全く、私という男は」 慈悲も情けもない若き日の自分に呆れたように、彼はその口許に苦笑いを浮かべた。 が、仮にも“氷河”の名を冠する男が、瞬に関することで そう簡単に引き下がるはずがない。 「だが、まだ未熟だ」 その一言を言い終える前に、彼は瞬のすぐ横にいた。 そして、素早く瞬の頬にキスをする。 隙を衝かれて かっとなった氷河は“自分”に殴りかかろうとした。 が、その時には既に、彼の姿は城戸邸の庭から消えてしまっていたのである。 それは一瞬の――否、一瞬にも満たない短い時間の出来事だった。 「あ……」 そうして、瞬は呆然と、彼の小宇宙のかけらだけがのこっている夏の庭を見詰めることになったのである。 「僕、『さようなら』も『ありがとう』もまだ言ってなかったのに……」 青く高い空。 眩しい陽光。 その光を受けて、今を盛りとばかりに燃えている緑の木々。 そんな光景の中にいるのは、今は、氷河と瞬の二人きりだった。 二人きりだったのだが――。 瞬と氷河は、自分たちが二人きりで生きているようには思えなかったのである。 自分たちの幸福が、どれほど多くの人たちによって守られ支えられているものか。 未来に生きている人でさえ、過去に生きる同胞の幸福を思い遣ることがあるのなら、今より過去を生きていた人たちは、どれほど自分たちの子供らの幸福を願ったことだろう――。 瞬は、心からの感謝をこめて、自分の命の重みを思わずにはいられなかった。 同じ思いで――氷河は、おそらく彼の母親のことを思い出していたのだろう。 瞬の視線に気付くと、彼は少しく戸惑ったような笑みを見せた。 「30年後に俺に言えばいい。おまえが直接。『ありがとう』だけ」 「うん……」 頷く瞬の肩を、氷河の手が包む。 その手の温もりが、30年後、いつかもう一度 自分は彼に会うことができるのだという確信を、瞬の胸の中に運んできてくれた。 だから、彼に『さようなら』を言う必要はないのだ。 「しかし……本当にタイムマシンなんてものができるのか……」 現実的なのか空想的なのか わからない氷河の呟きに、瞬は小さな笑い声を洩らしたのである。 この数日間、まるで夢を見ているようだった。 その夢が夢だったのか、あるいは本当にあったことだったのかは、30年の時間をかけて ゆっくりと、二人で確かめればいいことだった。 |