「で……おまえは奴が好きなのか」 「うん」 「俺よりも?」 「うん……」 「そうか。それはよかった。少し……残念でもあるが。実は俺も、おまえのことは憎からず思っていたんだ」 瞬は、そう言われて くすくすと笑った――ようだった。 ラウンジから洩れ聞こえてきた二つの声に、星矢と紫龍は揃って ぎょっとすることになったのである。 室内に入ろうとしていた二人の足を止めることになった会話自体は、そう奇妙なものではなかっただろう。 その会話を成り立たせている二つの声が、氷河と瞬のものでさえなかったならば。 ラウンジのドアの前で歩を止めた二人は、言葉もなく互いに顔を見合わせた。 そして、一言も言葉を発することなく視線だけで、ラウンジへの入室を取りやめることを決定する。 無言で二人はラウンジのドアの前をやりすごし、そのまま 真夏の光であふれている庭に出た。 そうしてから初めて――やっと――星矢は口を開いたのである。 「『奴』……って誰だよ」 「氷河でないことは確かだな」 「……」 それはそうだろう。 『奴』を『奴』呼ばわりしていたのは氷河その人。 いくら氷河の姿が日本人離れしたものであっても、その母国語が日本語でなくても、現在の彼の常用語は日本語であり、彼が自らを指す一人称に『奴』を用いるような過ちを犯すはずがないのだ。 となれば、瞬が好きな『奴』が氷河でないことは確かな事実ということになる。 なにしろ、瞬自身がそれを認めていたのだから。 疑念の挟みようのない その事実が、星矢に沈黙を強いる。 疑念の挟みようのない事実だからといって、すべての人間がそれを素直に受け入れられるかというと、決してそんなことはないのだ。 この世には、認めたくない現実、受け入れたくない事実というものが確かに存在する。 むしろ、好ましいことよりも腹立たしいことの方が 世界には多く存在するものかもしれない。 だからこそ、人は、『改善』『改革』『革命』といった言葉を作り出し、使用しているといっていい。 そして、現在 星矢が受け入れ難く思っている事実は、『瞬に好きな“奴”がいる』ということではなく『氷河がその事実を受け入れている』という状況の方だった。 優に5分。 真夏の庭に長い沈黙を形成したのち、星矢は再び――やっと――重い口を開いた。 彼らしくなく、少々 頼りない口調で。 太陽は東から昇るものと確信していた人間が、西から昇る太陽を見てしまったような、そんな表情で。 「あのさー。ちょっと聞いていいか」 「うむ」 「俺は、氷河は瞬のことが好きなんだと思ってたんだけど」 「奇遇だな。俺もだ」 「それも、目一杯本気だと思ってた」 「奇遇だな。俺もだ」 「瞬がオトコで自分もオトコだってことも忘れる勢いで、氷河は瞬に惚れてるって、俺は思ってた――たった今だって、そう思ってる」 「奇遇だな。俺もだ」 これまで星矢と紫龍は、その問題について 実際に言葉を用いて話し合ったことはなかった。 それは第三者が話し合ってどうなることでもないし、第三者が口出しすべきことでもない。 それは、氷河と瞬がどうにかすべきことだし、どうにかするだろう。 星矢は、そう思っていたのである。 だが、たった今 星矢が漏れ聞いた氷河と瞬の会話は、星矢のその考えを根底から覆すものだったのだ。 瞬に好きな“奴”がいることを、氷河が容認している。 それは、星矢の認識ではあり得ないことだった。 太陽が東から昇ることを信じる気持ちと同じレベルの確かさをもって信じていた『氷河は瞬を好きでいる』という事実――もとい、事柄。 それは ただの誤認、ただの勘違いだったというのだろうか。 そんなことがあり得るのだろうか――? 自分の認識に自信を持てなくなった星矢は、だから、これまで一度も口にしたことのなかった その問題を言葉にすることをした。 そうして、紫龍が自分と同じ認識でいたことを確認し、星矢は ささやかな安堵の念を得ることになったのである。 少なくとも それは、自分だけの 頓珍漢な事実誤認ではなかったのだ――と。 「氷河はマーマもカミュも亡くして、もう瞬しかいないから、それこそ命がけでさ。もし瞬に振られるようなことがあったら、氷河は向こう5年くらいは立ち直れなくなるだろうって、俺は思ってた」 「俺は、10年は立ち直れないだろうと踏んでいたが」 「誰かに瞬を掠め取られでもしたら、氷河は必ずそいつをぶっ殺すだろうとも思ってた」 「それで瞬に余計な罪悪感を抱かせるようなことは 氷河も避けたいだろうから、せいぜい半殺しくらいだろう」 「ああ、それくらいの分別は氷河にもあるかもな」 枝葉末節に多少の相違はあるにしても、星矢と紫龍の考えの方向性は一致していた。 紫龍と認識のすり合わせを済ませた星矢は、大いに安堵した。 では、それは、誤認でも勘違いでもない。 つまり、おかしいのは、どう考えても たった今自分たちが漏れ聞いた氷河の発言の方なのだ。 その確信を得て、それまで自信なげだった星矢の口調に徐々に力が戻ってくる。 「とにかく、氷河は まじで本気で瞬に惚れてる」 「その点では完全に同意見だ」 「なのに、何だよ! あれ! 瞬が他に好きな奴がいるって言ってるのに、平気で和やかに『それはよかった』だの『少し残念』だの! あんなの氷河の言うことじゃねーぞ!」 「しかし、あの声は確かに氷河のものだった」 「う……」 それを言われると、星矢としても反論のしようがない。 庭先からラウンジの方に視線を巡らせると、そこにあるのは間違いなく氷河と瞬の姿。 先程の会話が、氷河に似た声を持った何者かと瞬に似た声を持った何者かによって為された会話であった可能性は皆無にして絶無だった。 氷河以外に好きな“奴”がいるらしい瞬は、籐椅子に腰をおろし、膝の上に どこぞの画家の画集を広げ、そのページに視線を落としている。 そんな瞬の上に、氷河は時折 盗み見るように切なげな眼差しを投げている。 天馬座の聖闘士ほどではないにしろ、クールとは名ばかりの直情径行・暴虎馮河な戦い方を売りにしている氷河が、バトルの際の彼からは想像もできないほど、臆病に恋する男そのものの眼差しで瞬を見詰めているのだ。 それは、星矢には見慣れた光景だった。 だからこそ、星矢の中で『氷河は瞬を好きでいる』という認識は確信にまで高められ、揺らぐことのない事実となっていたのである。 つい数分前までは。 |