「つまり……氷河は、解離性同一性障害――俗に言う二重人格の状態にあるんだ」
そう言って事情を説明するのが氷河その人だということに、星矢と紫龍は激しい違和感を覚えていた。
のみならず、軽い目眩いにさえ襲われる。

ラウンジには平穏と(ある程度の)静寂が戻り、氷河の手であらぬ方向に移動させられていたセンターテーブルも元の位置に戻っていた。
そのテーブルを挟んで、氷河と瞬、紫龍と星矢が向かい合ってソファに腰をおろしている。
テーブルの向こう側は 氷河の支離滅裂の事情を知る二人、こちら側が その事情と理由を知らない二人――ということになるらしかった。

「俺は、冥界戦以降、氷河の――まあ、理性と良識を司ってきた、氷河の中にあるもう一つの人格だ。氷河は俺の存在に気付いていないが、俺を作ったのは間違いなく氷河自身の意思だ」
「氷河の奴は……なんで二重人格なんて、そんなもんに――」
星矢が、まるで この場にいない男を語るように尋ねる相手も氷河その人。
それは、もともと落ち着きのない星矢が落ち着いていられるような状況ではなかったのだが、この部屋に突入した時の驚愕が大きすぎて、毒気も苛立ちも抜けてしまったため、星矢は、星矢にしては比較的落ち着いて この会見に立ち会うことができていた。――表面上は。

「瞬への恋心が高じて――かな。瞬がハーデスに身体を乗っ取られた理由というのが、『地上で最も清らかだから』という実に馬鹿げたものだったろう。自分の恋の成就が瞬を汚すことになるのではないかと、奴は疑うようになったんだな。とはいえ、氷河は別に瞬に清らかな恋をしているわけじゃないから、その恋情を抑えるのにも限界がある。その限界を超えそうになると俺を呼び出して、自分の欲望を表層意識から消し去ることを、奴は覚えたんだ。そんな面倒なテクを習得する前に、瞬に瞬の気持ちを確かめてみるのが筋だったろうと 俺は思うんだが、まあ……奴は、おまえらも知っての通り、救いようのない馬鹿だからな」

氷河を『救いようのない馬鹿』と酷評するのも、氷河自身。
苛立ちが消えた分 比較的落ち着いてはいたが、到底 平常心ではいられない この状況下で、星矢は完全に冷静になりきれてもいなかった。
自身の混乱を少しでも治めようとした星矢は、矛盾を具現して その場にいる氷河にではなく瞬の方に、確認を入れることをした。

「瞬……こいつの言うこと、信じていいのか?」
「多分……。この人が氷河の身体を支配している時、氷河の瞳は銀色の霞がかかったようになるんだよ。表情も違うし――それに、この人は、僕の氷河ほどには僕を好きでいてくれないんだ」
「それは誤解だ。俺はおまえが好きだぞ。ただ、氷河の奴ほど馬鹿になれないだけだ。俺はおまえしか好きじゃない。俺は奴の欲望を抑えるためだけに作られた人格で、俺の中にはマーマとやらもカミュとやらもいない。余計なものは何もない。おまえだけだ。俺は、おまえだけを思っている」
瞬の見解に、氷河でない氷河が異議を唱えてくる。
その声音は、氷河のそれとは思えないほど落ち着いたもので、その言葉は、嘘や追従が含まれているとは思えないほど真摯かつ論理的なものだった。

「おまえ、こっちの氷河とくっついた方がいいんじゃねーのか、瞬」
星矢は思わず、半ば冗談で――つまりは半ば本気で――瞬にそう言ってしまったのである。
しかし、瞬は首を横に振った。
「僕は、マーマだのカミュだの、心の中にごちゃごちゃいろんなものを抱えている氷河が好きなの」
「では、俺と星矢が聞いた あれは――あの時、おまえが話していた相手は こっちの氷河で、おまえが好きな“奴”というのは、ごちゃごちゃ色々抱えている方の氷河のことだったのか」

ほのかに頬を上気させて、瞬が紫龍に頷く。
瞬のその返答は、瞬の仲間たちに安堵に似た思いを抱かせることになったのである。
氷河ではない氷河の心には、それがどう作用したのかはわからなかったが。
氷河は氷河なのだから、瞬の答えは彼にとっても喜ばしいものなのか、あるいは やはり『少し残念』と思っているのか。
本当にクールな氷河の本音は、彼の仲間である星矢と紫龍にも推し量ることはできなかった。
彼が、先程の“ごちゃごちゃと色々なものを抱えている氷河”の言動に腹を立てているのは、間違いのない事実のようだったが。

「とにかく、この馬鹿は俺の手に負えない。俺を作り出すほど大切に思っていた瞬に、こんな無体をしようとするなど――男の風上にも置けん」
「これは、僕と氷河の問題だから……。僕がどうにかするよ」
「どうにか……って」
これは、瞬一人で“どうにか”できることなのだろうか。
さすがの星矢が、不安げな顔になる。
おそらく、星矢のその不安を払拭するために――紫龍は、瞬に頷いてみせた。

「おまえは氷河が――ごちゃごちゃと色々なものを抱え込んでいる氷河が好きなんだな?」
「うん」
「ならば、俺たちはもう何もしない。おまえに任せる。そちらの氷河も それでいいか」
「俺は瞬しか好きじゃないからな。瞬の幸福が俺の望みだ。それさえ叶うなら、他に思うところはない」
氷河でない氷河はどこまでもクールである。
彼には、自身の消滅すら、さほどの大事ではないらしかった。
楽天的なくせに心配性な星矢だけが、相変わらず不安そうな目を瞬に向けていた。

「でもさ――」
「大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
瞬にそう言われてしまっては、さすがの星矢も引き下がるしかなかったのであるけれども。






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