Seeing is believing






「聖闘士って、敵対する者を腕力で屈服させようとする野蛮な人たちでしょう? どうして僕がそんなものにならなければならないの」
瞬が 兄の命令に正面きって逆らったのは、もしかしたら それが初めてのことだったかもしれない。
とはいえ、それは、これまでの瞬が兄の命令には盲目的に従う従順で大人しい弟だったからではない。
そうではなく、瞬の兄が これまで ただの一度も弟に対して理不尽な命令を下したことがなかったからだった。

エレウシスの領主としても、その家長としても、瞬の兄は、領民や家人の意思を尊重し、正義を尊び、権力に驕ることのない公明正大な男であったし、何より弟に甘い兄だったのだ。
その正義漢で公明正大な兄が突然、『おまえは聖闘士候補に選ばれたから、一両日中に聖域に向かって発て』と、瞬の気持ちを確かめることすらせずに命じてきたのである。
おかげで瞬は、非常に不本意なことではあったが、敬愛する兄の命令に抵抗しないわけにはいかなくなった。
親代わりに瞬を育ててくれた兄の命令とはいえ、瞬はそんなものには絶対になりたくなかったのだ。

貴族の子弟としての必要に迫られて剣術は身につけたが、それとて我が身を守るのに他人の手を煩わせたくないと考えてのこと。
そういう問題がなかったら、瞬は、人を傷付ける可能性のある力や身分を手に入れようとは思わなかった。
むしろ、瞬は、許されることなら神官か医師になりたかったのである。

瞬の兄は、そんな瞬の気質と望みを悉知しているはずだった。
にもかかわらず、彼は、彼の命令を翻そうとはせず、逆に瞬の説得を試み始めたのである。
「おまえは聖闘士というものを誤解している。聖闘士は貴族だからなれるというものではない。戦いのための技はもちろんだが、正義を尊ぶ心や勇気や人格の高潔さこそが求められるんだ。厳しい修行に耐えた上でしかなれない清廉潔白の士でもある。聖闘士の称号を得ることは 一軍の将になることより困難で、当然、聖闘士の身分は国王や貴族より格上。聖闘士は国中の――いや、世界中の誰からも尊敬される者たちだ。候補に選ばれるだけでも名誉なことなんだ」
「剣は貴族の子弟が身につけるべき作法の一つとして習得しました。でも、暴力はいや。僕はそんなものになりたくありません。戦いのための力なんていらない。聖闘士なんて、争いや戦いを回避するための努力を怠る、怠惰で頭の悪い人たちの代名詞でしょう」

弟の口答えに、兄が不機嫌そうな顔になる。
瞬の兄は、聖闘士というものに関して、瞬とは全く異なる見解を持っているようだった。
「おまえが何と言っても、これは既に決まったことだ。おまえは聖域に行かなければならない。女神アテナに仕える名誉な重任だぞ。おまえはいったい何が不満なんだ」
「女神に仕える? 腕力でですか? 僕は、つらい修行を課されるのが嫌だといっているんじゃないんです。腕力以外のことで女神に仕えろというのなら、聖域にでもどこにでも喜んで行きます。僕は、力で人を支配する者にはなりたくないと言っているだけです」
「瞬……」

多くの都市国家が乱立し覇を競っている このギリシャで、領主や国王が弱いということは、それだけで罪だった。
支配者が自国の民を守れないことは、大きな不幸を生む要因になり得る。
侵略や領土拡大のためでなくても、防衛のために、力があることは美徳なのだ。
アテナと聖域があるから、ギリシャ世界はかろうじて平和と連合統一が守られている。
聖闘士はそれぞれの国益を超えたところに存在する、いわばギリシャ世界を守護する者。
場合によっては王や領主より威勢のある者である。
そんな世界で、瞬の主張は極めて異端だった。

「世界中の人から尊敬されてるなんて言いますけど、誰も聖闘士に会ったことなんてないんでしょう。僕だって会ったことはない。会ったこともない人をどうやって尊敬するの」

聖域は秘密主義で、アテナに仕える聖闘士がどれほどいるのかも、誰が聖闘士なのかということも公表していない。
どこぞの領主の家士が聖闘士だとか、どこぞの国の将軍が聖闘士に任じられたらしいとか、様々な噂だけは流布しているが、誰もその噂が真実なのかどうかを知らないのだ。
ただ、もし何者かが『私は聖闘士だ』と主張することがあったなら、その者が聖闘士でないことだけは確実だった。
聖闘士は自分が聖闘士であることを聖域外の一般人に知らせることはしてはならない決まりになっているらしい。
聖闘士というものに関して聖域の外の者に知らされている事柄は、聖闘士は女神アテナによって その資格が与えられること、彼等が普通の人間には持ち得ない力を有すること、聖闘士になるためには尋常でなく厳しい修行に耐えなければならないこと――程度のものだった。

「瞬。女神アテナが見込みありと、おまえに白羽の矢を立ててくださったのだ」
「兄さんは僕が遠くに行かされても平気なの!」
「おまえのために言っているんだ」
「僕の意思を無視することが、僕のため? 兄さん、いったいどうしちゃったの。そんなこと言うなんて、いつもの兄さんらしくありません」
「俺もそうそう おまえの我儘を何でも聞いてやる甘い兄ではいられんのだ」
「我儘?」

これを我儘だと、兄は言うのだろうか。
いつもの兄であれば、そして、弟が聖闘士になることが理に適ったことと彼が本気で信じているのであれば、せめて本物の聖闘士を連れてきて、その正義高潔を現に示し、弟を納得させるくらいのことはしているはずである。
だが、それもせずに、ただ『聖域に行け』だけでは、瞬はどうあっても兄の命令に従うわけにはいかなかったのだ。

「僕は絶対にいやです。聖闘士になんかなりたくありません!」
もう一度 きっぱりと断言して、瞬は兄の私室を出た。
そのまま自室に飛び込む。
後ろ手に部屋の扉を閉じてから、瞬は唇を噛みしめたのである。

瞬は、こういう事態は初めてだった。
ここまで兄と意見が対立したのは初めてだった。
そして、瞬の兄は 自身の決定を翻すことは滅多にしない男。
今回もおそらく、あの兄は、彼が決めたことを断固として実行に移すだろう。
その命令を撤回することは、まず考えられない。
これまでは 兄の判断や決定を間違っていると感じたことがなかったから、瞬は兄の ためらいのない実行力を好ましく思い、彼の指示決定には必ず従ってきた。

しかし、この理不尽な決定までを実行に移されてはたまらない。
血のつながった弟とはいえ、兄の臣下でもある瞬は その命令に従わないわけにはいかなくなるだろう。
だが、瞬はいやだったのだ。
正義を為すために、まず力に頼るような者になることだけはどうしても。

とはいえ、聖域の力は絶大である。
聖域の求めに逆らうことは、聖域を統べる女神アテナに逆らうこと。
人智を超越した力を持つ神に逆らうことなのだ。
瞬の“道理”を通すために聖域からの命令を撥ねつければ、それこそ聖域から聖闘士がやってきて、彼等が持つ尋常ならざる力で何をするかわかったものではない。
聖域に反抗する子供を無理に拉致していくだけで済めばいいが、アテナの名のもとに エレウシスに災いをもたらすかもしれないのだ。
それでは、兄にも領民にも迷惑がかかる。

考えたあげく、瞬は家出を決行することにした。
聖域からの命令がくる前に、呼び出しを受けた者が旅に出ていたことにすれば、エレウシスが聖域の命令に逆らったことにはならず、民や兄に迷惑が及ぶこともあるまい。
瞬は、そう考えたのである。

いったん決意すれば、瞬はあの兄の弟。
決断を実行に移すのに時間を置くことはしなかった。
初めて兄に逆らった日の太陽が西に傾く前に、瞬は、生まれ育ったエレウシスの館を飛び出していたのである。
小さな剣と、少しばかりの金貨と食料と着替えだけをもって。






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