聖域はギリシャの南方、エレウシスからは西南の方角にある。 “聖域に行かないこと”が瞬の目的だったので、兄の館を出た瞬は、深い考えもなく北に向かって歩を進めた。 が、百歩も進まないうちに、瞬は、自分はどこを目的地に定めればいいのかを思い悩むことになってしまったのである。 兄の庇護下で風にも当たらぬように暮らしてきた瞬は、実は、領地の見回りや遠乗りで出かける場所以外、ほとんど館の外の世界を知らなかったのだ。 どこに行くべきかを迷いながら とぼとぼと歩き、小さな山を一つ越えたところで、太陽が西の山の端に沈もうとしていることに気付く。 もしかすると自分は今夜、噂には聞いたことのある“野宿”というものをしなければならないのかという不安に囚われかけた時、瞬は、太陽が沈もうとしている方向とは反対側にある紫色の空に細い煙が数本立っているのを見付けたのだった。 瞬が越えてきた山は、エレウシスの東の国境にあたる山だった。 遠くに見える集落は既に兄の領地の外のようだったが、それはむしろ幸いなことである。 兄の支配力の及ばない村。 少なくともそこに行けば、野宿という冒険だけでなく、家出をしたその日のうちに兄の許に連行されるという みっともない事態をも避けることができることになるだろう。 安堵のために 心と一緒に軽くなった足で、瞬は、立ちのぼる煙の下にあるはずの人家を目指して駆け出した。 が、そこは はたして村と呼んでいいものだったのかどうか――。 瞬が辿り着いた場所は、村と呼ぶには あまりに小規模な集落だった。 人家は10軒に満たず、そのほとんどに人のいる気配がない。 家と家をつなぐ小道はあったが、その道を歩いている者もない。 遠くから見えた煙は 雲がそのように見えただけで、ここは実は人の住まない廃村なのかと落胆しかけた時、瞬は、一軒だけ人の気配のある家があることに気付いた。 数軒ある住居の中で最も大きな建物。 入り口には食事ができることを示す木製の小さな板がかかっている。 その建物――家と呼んでもいいような様子をしていたが――は、宿屋を兼ねた食堂もしくは酒場のようだった。 そして、瞬は、そんなものが こんな人気のないところにあることを奇妙に感じる前に、その家の扉を開けてしまっていたのである。 「ごめんください」 市井の宿屋や食堂がどういうものなのかを、瞬は知らなかった。 ゆえに、そこが宿屋や食堂として一般的なのか特異なのかを判断することもまた、瞬にはできなかった。 瞬が問題の建物の扉を開けると、そこは既に一つの部屋になっていた。 家人が客を出迎え、客が剣や荷物をおろすためのホールはない。 大きな木製のテーブルが3つほどあり、客らしき男たちが7、8人、それぞれの席に着いて食事をとり、酒を飲んでいる。 彼等は、扉の前に立つ瞬の姿を認めると、一斉に、そして一様に、一瞬だけ怪訝そうな目を瞬に向けてきた。 自分はどこかおかしな格好をしているのだろうかと、彼等の視線を受けた瞬はしばし たじろぐことになったのである。 が、それはどうやら、彼等がこの店の常連で、瞬はそうではないという事実のせいだったらしい。 瞬に不躾な視線を向けてきた男たちが、店の奥に向かって、あまり上品とは言い難い胴間声を響かせる。 「おーい、なんと またしてもお客サマだぞー」 「今日はいったいどういう日なんだ。こんなところに、2ヶ月振りに二人も客があるとは」 店の奥に向かって そう叫んだ男たちがちらりと視線を投げた先――3つ並んだテーブルのいちばん奥の席に、旅装の男が一人いた。 この店の常連たちにも もう一人の客にも全く興味のないような様子で、干し肉を挟んだパンを食している。 それがどうやら、瞬以外のもう一人の客らしかった。 こういう場所での作法を知らない瞬が、男たちの視線の心地悪さに耐えて、その場に困惑しながら突っ立っていると、彼等の中の一人が親切にも、不調法な子供にこういう場での振舞い方を教えてくれた。 「好きなところに掛けていいんだよ」 「あ……そうなんですか」 彼等は この店の主人ではなさそうだが、主人と心安くしている者たちらしい。 だからこそ、この店での作法も心得ているのだろうと、瞬は思った。 「あの、僕、泊まるところがないの。こちらでお部屋をお借りしたいんですが。あと食事と」 「また随分と上品な客が来たもんだな」 「まだほんの子供じゃないか」 瞬の求める答えを彼等は瞬に与えてはくれなかった。 どれほど店の主人と心安くしている常連でも、彼等は店の主人ではないのだから、それも仕方のないことと、瞬は小さく吐息したのである。 彼等はこの近隣の者たち――もしかしたら、先ほど瞬が廃屋と思った家の住人たち――で、彼等はこの店を彼等の溜まり場にしているのだろうと、瞬は思った。 その場で旅装といえるような服装をしているのは、奥のテーブルに着いている もう一人の寡黙な客だけだった。 瞬以外のもう一人の客は、3つあるテーブルを一人で使っている。 瞬は、そろそろと 旅人が一人だけ腰掛けているテーブルの側に移動し、彼の斜め向かいにある椅子に恐る恐る着席した。 その場で唯一 瞬に関心を示さない旅装の男は、瞬の方を見ようともしなかったので、瞬には彼の面立ちは よくわからなかった。 瞬に見てとれたのは、彼が実に見事な金髪の持ち主だということ。 こういう金髪を、瞬はエレウシスの領内では見たことがなかった。 ギリシャより北方にある国には陽光のような金髪を持つ者がいると、話には聞いたことがあったので、彼は北の国からやってきた旅人なのかもしれないと、瞬は思ったのである。 瞬がそんなことを考えていると、奥の部屋から やっと この店の亭主らしき男が姿を現わした。 そして、顔をあげた瞬が自分の用件を彼に告げようとする前に、さっさと自分の商売を始める。 「今夜泊まれる部屋がご入用で? 二階にいい部屋がありますよ。食事はそちらに運びましょう」 「あ、そんないい部屋でなくていいの。あんまりお金は持ってないから」 「まあ、見るだけならタダですよ。小さな部屋だし、そんなにふっかけたりはしない。さあさあ」 これまで客を待たせていたのは、店の主人その人である。 のんびりした主人なのだろうと思っていた男が、妙に瞬を急かしてくる。 彼に急きたてられて、瞬は慌てて掛けていた椅子から腰を浮かしかけた。 そんな瞬を引き止めたのは、もう一人の客人。 「行くな。ろくなことにならない」 彼は、低く ぶっきらぼうな声で、瞬にそう言ってきた。 「え?」 もしかしたら それは親切な忠告だったのかもしれないが、瞬は彼の懸念を一笑に付した。 兄の治めているエレウシスは比較的 治安が守られているが、他の国は必ずしもそうではなく、盗人や追い剥ぎも多いという話は、瞬も聞いて知っていた。 だからこそ瞬は、上等の服を身に着けず、宝石の類も持たずに 兄の館を出てきたのである。 持っていないものは、盗人でも奪えない。 ゆえに彼の心配は杞憂である――というのが、瞬の考えだったのである。 「僕、本当にあまりお金は持ってないの。ろくなことも何も――」 「この男は、おまえから金を取るつもりはないだろう。おまえで金を稼ぐ気だ」 「どうやっててですか」 「人気のないところに連れていって、ふんづかまえて、自由を奪って、どこぞの好き者の王侯貴族に売りつけるんだ」 「僕、できる仕事もあまりないの。売ろうとしても買ってくれる人はいないと思います」 「……」 瞬は、理に適った道理を口にしたつもりだったのだが、金髪の男は、むしろそれを非常識と思ったらしい。 彼は、常識と警戒感を備えていない子供の楽観に、大仰に肩をすくめてみせた。 「その綺麗な顔と華奢な身体に価値があるんだ。買いたがる者はいくらでもいる」 その場にいる誰のことも気にとめていないようだったのに、彼は いつのまに もう一人の客の姿を確認したのかと、瞬は首をかしげることになったのである。 そして、首をかしげたついでに、彼の顔を覗き込んだ。 そこにあったのは、意想外に美しい顔。 窓から射し込む 今日の最後の陽光を受けた瞳の青さは、特に美しい。 瞬はつい、感嘆の声を洩らして笑ってしまったのである。 「まさか。綺麗というなら、僕なんかより あなたの方がずっと綺麗です。もし こちらのご主人がそんなことを考えているのなら、僕より先に あなたの方が ふんづかまえられて、自由を奪われて、どこぞの好き者の王侯貴族に売りつけられているはずです」 「……」 世間知らずの大人しそうな子供と思っていたものが、思いがけず達者な口をきくのに、彼は呆れたらしい。 彼は初めてまともに顔をあげ、正面からまじまじと瞬の顔を見詰めてきた。 おかげで、瞬も、もう一人の客の様子を思う存分 観察することができたのである。 まだ若い。 そして、たくましい。 彼の全身を包んでいる緊張感は、彼が かなりの使い手であることを――得物が何なのかはわからなかったが――瞬に知らせてきた。 特に裕福そうではなく、ごく普通の旅装束だったが、おそらく一度は どこかの貴族の城か王宮に身を置き、何らかの訓練を受けたことがあるに違いなかった。 所作が粗野でなく、動作に無駄がない。 「俺は、ここにいる奴等にふんづかまえられて、自由を奪われるほど、弱くもなければ阿呆でもない」 「それは僕だって」 「おまえのその自信はどこから湧いてくるんだ」 彼がそれなりの使い手であることを、瞬は素直に認めることをしたのに、彼は瞬を見損なってくれた。 呆れたようにぼやく金髪の青年に、だが、瞬は腹を立てることにはならなかったのである。 瞬は、その方面で人に侮られることに慣れていたのだ。 すべては柔弱に見える自分の外見のせいなのだと、その件に関しては、瞬はほとんど諦めていた。 「怪我をしたくなかったら、商売の邪魔しないでくださいよ、旦那。食事代はいりませんから」 そう言いながら、店の主人が金髪の客の肩に手を置こうとする。 他のテーブルに着いていた常連たちは、いつのまにか各々の席から立ち、瞬(ともう一人の客)の周囲を取り囲んでいた。 中の二人が、左右から瞬の腕を掴んでくる。 「何するんですかっ」 その行動が、どう考えても こういう場での流儀を瞬に教えてやろうという親切心から出たこととは思えなかったので、瞬は彼等の腕を振りほどこうとしたのである。 もともと上品な貴紳には見えなかったが、今は彼等はその顔に 下卑て くすんだ笑みを浮かべていた。 何か良くないことを企んでいる者の表情。 さすがの瞬にも、彼等が善良な農民や猟師であるとは思えなくなってしまったのである。 「あなたたちはいったいどういう人たちなの」 「こいつらは この廃村に住みついた追い剥ぎ共だ」 瞬の疑念に答えてくれたのは、瞬に問われた当人たちではなく、瞬を除けば この店の常連でない唯一の客の方で、瞬にそう言いながら、彼は彼が座っていた木の椅子からゆっくりとした動作で立ち上がった。 そして、立ち上がるなり、瞬の腕を掴んでいた二人の男を、彼は薙ぎ倒してしまっていた――おそらく。 他人に不躾に両腕を掴みあげられることの不快に意識を向けていた瞬には、彼がどう動いてそんなことをしてのけたのかが、よくわからなかったのである。 それくらい、彼の動きは素早かった。 「獲物が通りかからないせいで悪さもしていなかったようだし、そんな日照り状態に甘んじている追い剥ぎ共なら大した害もないだろうから、放っておこうと思っていたのに」 倒された男たちの仲間も、倒された男たち自身も――いったい我が身と仲間の身に何が起こったのかが理解できていなかっただろう。 そんな相手に――どんな技や力を持っているのかを理解できていない相手に―― 一瞬ひるんだだけですぐに怒りに身を任せて飛びかかっていく追い剥ぎたちの無謀と無思慮が、瞬には それこそ理解できなかったのである。 「あの……多分、危ないから、やめた方が――」 『やめた方が賢明だ』という忠告を、瞬は最後まで言うことはできなかった。 瞬がその忠告を言い終える前に、その店の主人と常連たちは、全員が、掃除が行き届いているとは言い難い床と熱烈なキスを交わしてしまっていたのだ。 「食事代はここに置く」 床に倒れて呻いている男たちに そう言って、彼はテーブルの上に幾枚かの銅貨を置き、そのまま店の扉に向かって歩き出した。 それが律儀なのか嫌味なのかを悠長に考えている時間を持つことは、瞬にはできなかった。 既に店の外には薄墨を流したような夜の 倒された追い剥ぎたちをふんづかまえて自由を奪ってしまえば、この家で夜を過ごすことは可能であるし、この廃村の周囲の何もなさを思えば、そうした方が賢いやり方なのかもしれないと、瞬は考えた。 だが、彼が何者なのかが気になる。 瞬が迷ったのは、ほんの数秒。 たとえ今夜の寝床を確保できなくなっても、彼を見失いたくない。 自分の中にある その思いに気付くや、瞬は彼を追って、追い剥ぎの根城を飛び出していた。 幸い彼の歩く速さは、彼の悪党誅伐の目にもとまらぬ速さほどには異常ではなく、おかげで瞬は彼の姿を見失わずに済んだのである。 |