そろそろ人の顔の判別も難しくなり始めている夕暮れの中を、彼はすたすたと北に向かって歩を進めていた。
懸命に駆けて彼に追いついたまではよかったが、その次に為すべきことが思いつかない。
瞬の気配に気付いていないはずはないのに、彼は一瞬たりとも その歩みを止めようとはしなかった。
ここで『こんばんは』と とぼけた挨拶をしたら、彼は自分の方を振り向いてくれるだろうかと、そんな埒もないことを瞬が考え始めた頃、
「見たところ、どこぞの貴族の坊ちゃんのようだが……名前は」
という声が、瞬の上に降ってきた。

そう言いながら、彼は瞬を“見て”もいなかったのだが、今ここでそんなことを指摘しても始まらない。
ともかく今は彼の関心を失い、彼に見捨てられたくない――の一心で、瞬はすぐに彼に問われたことに答えたのである。
「瞬」
「どこから来た」
「エレウシス」
「エレウシス? あそこの領主は確か――」

何事かを言いかけて、彼はその言葉を喉の奥に呑み込んだ――ようだった。
あるいは彼は、彼が言おうとした言葉を いったん反芻しただけだったのかもしれない。
しばしの間を置いてから、彼は瞬に重ねて尋ねてきた。
「まさかとは思うが、おまえはエレウシスの領主の血縁か何かか」
「弟です」
「……」
彼を包むものは宵の薄闇。
彼は瞬の方に一瞥をくれようともしない。
だから、瞬は、彼の表情を確かめることはできなかった。
だが、瞬の答えを聞いた一瞬間、彼の周囲の空気が僅かに乱れたことだけは、瞬にも感じとることができたのである。

エレウシスはギリシャ世界の中では非常に富んだ国であり、平和な国でもある。もとい、平和だからこそ富んだ国である。
故国にいれば何不自由のない生活が約束されている領主の弟が なぜこんなところにいるのかと、彼は訝った――のだろうと、瞬は思った。
瞬の推測は当たっていたのだろう。
次に彼の口から出てきたのは、
「そんな身分の者が、なぜこんなところをふらふらしているんだ」
という、実に素朴で常識的な(?)ものだった。

「聖域から、聖闘士になる修行のために来いっていう命令がきたんです。僕、そんなものにはなりたくなかったから、家出してきたの」
嘘をついても始まらない。
瞬は正直に、彼に事実を告げた。
多分、信じてはもらえないだろうと思いはしたのだが。
「聖闘士に? おまえがか?」

案の定、疑念を更に深めたような答え――それは同時に発問でもあった――が、彼から返ってくる。
顔が見えなくても、彼がどんな表情を浮かべたのかを、瞬には容易に察することができた。
誰からも侮られる柔弱な姿をした若輩者が、アテナの聖闘士候補とはどんな冗談なのかと、彼は思ったに違いない。
冗談だったらどんなによかったかと、瞬こそが思っていた。
だが、瞬の兄は、そもそも彼は冗談の言い方を知らないのではないかと思えるほど、冗談というものを言わない男だった。

「僕、暴力は嫌いなんです。腕力を用いないと正しいことも通せないなんて、アテナの聖闘士だか何だか知らないけど、たかが知れてます。まだ王侯貴族の雇われ家士や軍兵の方がまし。彼等には守るべき厳しい規則と作法があるもの。でも、聖闘士っていうのは、アテナの加護をいいことに、世の秩序を無視して傍若無人に振舞う人たちだって聞いてます」
「聖闘士は、そこいらの兵卒ごときとは桁違いに強い――強くなければなれない。勇猛果敢で鳴らした勇者豪傑が百人でかかっても聖闘士ひとり倒すことはできないだろう。――俺はそう聞いている」
「……」

兄もそうだったが、世の男たちは――特に衆に秀でた力を持つ者たちは――なぜそこまで聖闘士というものを美化するのだろう。
聖闘士という称号は力のある者たちが最後に欲する栄誉のようなものなのだろうかと、瞬は思うことになったのである。
その栄誉を手に入れたとしても、その途端に、彼等はその栄誉をひた隠しにしなければならないというのに。

「そんな化け物じみた力を手に入れて、人は幸せになれるの」
「幸せ?」
それを奇妙な質問だと彼は思ったらしかった――そういう顔をした。
しかし、瞬にはそれこそが自らの人生における最も重要で最も重大な問題だったのである。
もちろん、自分以外の人間もそうであるに違いないと思っていた。
力を手に入れることで、人は幸せになれるのか。
力は、誰かを幸せにすることができるのか――ということが。

「力の使い方次第だろうな」
彼の返答は、瞬が想像していたものよりは かなり真っ当な答えだった。
彼は、力のために力を欲するという愚かな願望に引きずられて聖闘士を弁護しているのではないらしい。

「それはそうでしょうね。でも、聖闘士がどこかで立派なことをしたっていう話は聞いたことがない」
「聖闘士は、そこいらの馬鹿な英雄志願と違って、名乗りをあげたり、自分の善行や戦果を喧伝したりはしない。市井の力自慢共は、自分を より優遇してくれる君主に売り込むために、その言動のすべてを売名行為の種として使う。だが、聖闘士の君主はアテナだからな」
「よくご存じのようだけど、あなたは聖闘士なの?」
「残念ながら、どこぞの国の軍で兵として戦ったことすらない」
「お名前は?」
「氷河」
「氷河はどこへ行くの」
「特に当てはない。その日の気分でふらふらしているだけだ」

“そこいらの英雄志願”を馬鹿にするところを見ると、彼は自分を厚遇してくれる君主を求めているわけではなさそうだった。
だが、あれほど戦いの技に秀でている人物に、目的地もなくふらふらしていることなどできるものだろうか。
そういう人間には、彼の持つ力を発揮する場所が必要であり、その場が与えられなければ、いわゆる『宝の持ち腐れ』という事態が発生するだろう。
瞬は氷河の返答の真偽を疑うことになったのだが、それが事実でないと言うことは瞬にはできない。
瞬は、結局 口をつぐむことになった。
なにしろ『目的地がない』ということに関しては、瞬も氷河と似たり寄ったりの身だったのだ。

「おまえは。おまえはどこに行く気だ」
その“似たり寄ったりのこと”を、今度は彼が瞬に尋ねてくる。
「僕は聖域から少しでも離れられるなら、どこでもいいの」
瞬は再び事実を告げた。
瞬の答えを聞いた氷河が、“その日の気分でふらふらしている”男にそんなことを言う権利があるとは思えない忠告を、瞬に垂れてくる。

「悪いことは言わないから、兄の許へ帰れ。おまえは一人旅をするには危険すぎる。いかにも世間知らずで、騙されやすそうだ。さっきの奴等からは逃れられたが、いずれ別の悪党に捕まって身ぐるみはがされ、どこぞの金を持った好き者に売りつけられるのが関の山だ」
「僕、剣の使い方くらいは知っています。自分の身を守るくらいのことはできます」
「軍律を知る兵士より強くて礼儀も作法も知らない悪党が、世の中にはたくさんいるんだ。実力だけがものをいうところでは、まともに剣の作法を知っていることがむしろ仇になる。剣を使えることには何の価値も意味もない」
言うなり、氷河が瞬の身体を引き寄せて、その腕をひねり上げる。
「ほら、俺にもこうして簡単に――」

その時になって、瞬は、空に明るい月が出ていることに気付いた。
月が明るすぎるせいで、星がかすんで見えない。
その光が、瞬の眼前に迫った氷河の顔を、陰影をつけて照らし出す。
これだけ美しい男性なら、世の女性陣がこぞって 彼への恭順と奉仕を願い出てくるに違いない。
なるほど彼は、危険を犯して英雄になろうとする必要のない男だろう――と、瞬は思った。
少し腹が立って、彼の腕をすり抜ける。
聖闘士でも英雄志願でもない男の拘束から逃れることくらいは、瞬にもできた。
腕を掴んでいる“敵”の力に逆らわず、少しだけ手首の角度を変え、勝ち誇っている“敵”の隙を突けばいい。

「簡単に?」
氷河から一歩分 距離を置いたところに立ち、首をかしげてみせる。
いかにも世間知らずの子供が自分の手の中から消えたことに、氷河は少なからず驚いたようだった。
「なるほど。聖闘士候補か」
言うなり、今度は正面から、瞬の両腕をひねり掴んでくる。
氷河の動きがあまりに速すぎて――瞬は今度は彼から逃げることができなかった。
「俺が悪い男だったら、おまえは今頃、俺の欲望の解消処理に協力させられている」

「……」
いったい彼は突然 何ということを言い出したのか――。
瞬は月の明るさに、感謝することになったのである。
とんでもないことを言い出した男の顔は完全に真顔だったが、その目は瞬をからかうように笑っている。
月の光がなかったら、瞬は本気で彼の冗談に怯えることになっていたかもしれなかった。

「そ……そういうことは男女間で行なわれるものでしょう。僕は男子です」
「おまえが男だということは、大した問題ではないな。そんなことを気にするには、おまえは綺麗すぎる」
瞳の上だけにあった笑みを顔全体に広げて、瞬を掴まえていた手を、氷河が放す。
自分の力で逃れたのではなく、“敵”に逃がしてもらったという事実が、瞬に負けん気を起こさせた。

「氷河の方こそ、僕の欲望解消処理に使われないように気をつけてください。あなたこそ綺麗すぎるようだから」
氷河の笑いが更に濃さを増す。
彼は、瞬の前で初めて、声をあげて笑った。
「おまえがその気になったなら、俺は喜んで おまえの欲望解消処理に協力してやろう」
瞬は手足が剥き出しになった膝上丈のチュニックを身に着けていた。
そんな瞬の姿を意味ありげに観察してくる氷河の視線を不快と思うことは、だが、瞬にはできなかったのである。

「え……?」
氷河の告げた言葉の意味が、瞬は よく理解できなかったのだ。
そもそも瞬は、男女の間で それがどのような為されるものなのかを知らなかったし、まして、同性間でそんなことが可能なのだと思ったこともなかった。
瞬は本気で・・・冗談を言っているつもりだったのだ。

だが、氷河はまるで それが実現可能なことであるような口振りで、瞬の冗談に応えてきた。
瞬はつい本気で・・・真顔になり、氷河に尋ねてしまったのである。
「あの……どうやって?」
次の瞬間、瞬の上に、氷河の大爆笑が降ってきた。






【next】