その夜、瞬は生まれて初めて野宿というものを体験した。
屋根も壁もないところで どうやって眠るのか、瞬ひとりであれば その謎は永遠に解くことができなかったろうが、氷河がそれを瞬に教えてくれた。
そして、火の気のないところに火を起こす氷河の驚異的な技を見た瞬間、瞬はこれからも彼についていくことを(一人で勝手に)決めてしまったのである。

地べたに眠る行為は、やわらかい寝台での就寝に慣れた瞬の身体に悲鳴をあげさせたが、そんな痛みがどれほどのものだというのか。
それは、聖闘士になるための修行に比べたらずっと楽なことのはずである。
聖闘士になって自分が他人の身体を傷付けることに比べたら、この寝苦しさなど ほんの少しの こそばゆさと変わらないはずだと、瞬は思った。

朝になると、もう野宿には懲りただろうというように、氷河は瞬に兄の許に帰ることを勧めてきたが、瞬は力一杯 首を横に振った。
瞬は彼の忠告に従うわけにはいかなかったのだ。
氷河が あの追い剥ぎたちの住処を出て、瞬を野宿に誘った・・・のが 瞬に家出を諦めさせるための策略だったことが、瞬にはもうわかってしまっていた。
ここで野宿のつらさに負けて すごすご兄の許に帰ったりしたら、自分は氷河の思う壺にはまったことになる。
そんな屈辱的な事態だけは、瞬は避けたかった。

「俺についてくるのは危険だぞ」
「どうして?」
「俺が危険を求めてふらついているようなものだから」
「危険って、求めて出合えるものなの?」
「おまえは答えるのが難しいことばかり訊いてくるな」
氷河は、それでも瞬を肉親の許に帰したいようだったが、瞬はそのたび首を横に振った。
「どこまでついてくる気だ」
と嫌味めいたように言われた時には、氷河の先に立って歩き、
「氷河の方こそ、どこまで僕についてくるつもりなの」
と答えて、彼の嫌味を受け流した。

そんな昼と夜を3回。
野宿で瞬に家出を断念させることはできないと悟ったらしく、4日目からは氷河は可能な限り 宿をとるようになってくれた。
氷河の頭の中には、ギリシャの詳細な地図が極めて正確に収まっているようだった。
各ポリスの都の他には小さな村が点在しているだけの乾燥した地をさすらっているというのに、二人は二日に一度は必ず集落に行き当たり、食料を確保できたのである。

二人が出会う者たちは大概が親切で、皆 快く瞬たちに食料を分けてくれた。
より正確に言うならば、『氷河に食料を分けてくれと頼まれた女性たちは大概が親切で、誰もが嬉しそうに氷河に食料を分けてくれた』。
氷河は、自分の容姿の持つ力を実に正確に心得ているらしく、それが(なぜか)大いに瞬の気に障ったのだが、氷河の手腕で飢えずに済んでいる身の瞬としては、女性にばかり頼み事をする氷河を表立って批判することもならなかった。

氷河にばかり頼ってはいられないと、瞬も一度その行為に挑戦してはみたのである。
ある村で一人の老婦人に、食べ物を分けてくれないかと話を持ちかけてみた。
だが、最初は親切そうだった その老婦人は、瞬が食料の代価として払おうとした金貨を見るなり、瞬を疑うような顔つきになり、結局 瞬との取り引きを取りやめてしまったのだった。

「僕は、そんなに怪しい面体をしているの」
瞬が少なからず落ち込んでいると、氷河は、
「そんな ぴかぴかの金貨をもらっても、地道に暮らしている者たちは扱いに困るだけだ」
そう言って、瞬の失敗を一笑に付してしまった。
「じゃあ、氷河は、親切な女の人たちに食べ物の代価として何を払ってるの」
と瞬が尋ねると、
「半年は解けることのない氷の塊りだ」
という馬鹿げた答えが返ってくる。

そんな便利なものがあったなら、確かに誰もが喜んで食料を分けてくれるだろうが、そんな便利なものがあるはずがない。
おそらく彼は、旅の道連れの目と耳を盗んで、親切な女性たちに 特別上等な笑顔か甘い囁きを支払っているのだろう。
そんな想像を余儀なくされると、瞬は氷河の低俗なやり方に腹が立ったのだが、氷河の取引相手がそれで納得しているのだから、こればかりは瞬にも文句は言えなかった。

その件を除けば、氷河との旅は さほどの不自由もなく快適なものだった。
むしろ楽しい旅と言ってよかった。
全く不自由がないというわけではなかったが、氷河に出会えなかったら自分の家出は2日と続けられなかっただろうと思うと、瞬には多少のことは容易に我慢できてしまったのである。

氷河は確実に瞬より強く、処世の術にも長けていた。
そして、瞬は、氷河にとって、決して従順な いい子ではなかった。
むしろ生意気な足手まといだったろう。
それでも氷河は瞬に乱暴なことはしなかったし、声を荒げることもなかった。
瞬の無知や未熟を庇い、気遣いを示してくれる場面が幾度もあった。
氷河と共に旅する日を重ねるにつれ、瞬の中には彼に対する信頼のようなものが培われていったのである。

そんなふうに、氷河との旅は楽しかったのだ。
だから、その夜、小さな村の小さな宿の部屋で、ふいに夜中に目が覚め、窓から差し込む月の光の中で涙を流している自分に気付いた時、瞬は、なぜ自分は泣いているのだろうと 我と我が身を訝ることになったのである。

「どうして、兄さん……」
声に出したつもりはなかったのだが、隣りの寝台で休んでいた氷河が、
「寂しいのか」
と尋ねてきたところを見ると、やはり瞬はその言葉を声に出してしまっていたのだろう。
瞬は慌てて涙を拭い、首を横に振った。
「一人じゃないから平気」
「なら、なぜ泣く」
「――兄さんはどうして急にあんなこと言い出したんだろうって思っただけ……」

瞬はそれが悲しかったのだ。
自分が聖闘士にならなければならないらしいことより、兄に突然『聖闘士になるために聖域に行け』と言われたことが。
聖闘士になるためには、兄と離れて暮らさなければならなくなること。
それを兄が弟に勧めてきたこと。
争い事が嫌いな弟の気質を知っているはずの兄に、力で物事を解決する者になれと言われたこと。
瞬の意思を確かめようともせず、兄がそれを決定事項のように語ったこと。
その時、瞬は、自分が兄に見捨てられたような気持ちになったのである。

「それが おまえのためになると思ったからに決まっている」
氷河の答えは明快だった。
そして、瞬が反駁の言葉も思いつかないほど正しかった。――おそらく。
「うん……」
氷河の言う通りなのだろう。
兄は、それが弟のためになると考えて、そんなことを言い出したのだ。
もっとちゃんと兄と話し合えばよかった――と、瞬は今になって自分の軽率を悔やんでいた。
兄に見捨てられたと思い込む前に、冷静に兄の真意を尋ねればよかったのだ。
反射的に生じた不安と反発心に身を委ねることなく。

「力で物事を解決する聖闘士より卑劣で卑怯なことを、僕はした。一時の感情に流されて家出なんかして……兄さんはきっと僕のこと心配してる。兄さんは僕が氷河に会えたことを知らないでいるんだから」
「ひと月も家出を続けたら、おまえの気も済んだだろう。兄貴の方も、おまえの意見を聞く気になっているかもしれない。兄の許に帰りたいのなら、すぐに連れていってやるぞ。おまえの軽率を、俺も一緒に謝ってやろう」
「……まだいい」
「まだ逃げ続けるのか」
「いつか帰って、ちゃんと兄さんと話し合うよ。でも今は、聖闘士になるとかならないとかっていうことより、氷河といる方が楽しいの。氷河は、僕がいたら迷惑?」
「……」

月の光を受けて宝石のようにきらめいていた氷河の青い瞳は、しばらく無言で瞬を見詰めていた。
その瞳が、やがて、無言のまま閉じられる。
氷河は瞬に答えを返す代わりに、寝た振りを決め込むことにしたらしい。
これまで『軽率に家出してきた弟は兄の許に帰るべきだ』という考えで終始一貫していたようだった氷河が、『迷惑だ』と明言しない。
わざとらしく狸寝入りに突入してしまった氷河の意図をあれこれ考えているうちに、瞬の口許には ほのかな笑みが浮かんできてしまったのである。

氷河は、瞬が彼のあとをついていくことを迷惑だとは思っていないのだ。
それが嬉しくて、少し胸が高鳴る。
瞬の涙は、いつのまにか すっかり乾いてしまっていた。






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