翌日は快晴だった。
瞬は張りきって旅支度を整え、氷河より先に宿の一階にある食堂で彼を待っていた。
小さな村の小さな宿にしては、存外に宿泊客が多い。
近辺に有力な神の神殿でもあるのだろうかと 瞬が首をかしげたところに、氷河が姿を現わした。

「おはよう、氷河! 今日は早めに発つの?」
瞬は、自分でも張りきりすぎなのではないかと思うほど元気な声を氷河に投げかけたのだが、氷河はそれに どこか疲れたような一瞥を返してきただけだった。
そして、少しばかり投げやりに感じられる声で、
「あの山の向こう側に大きな村がある。そこで食料を調達したら、来た道を引き返すぞ」
と言ってきた。

「え? ど……どうして !? 」
昨夜 瞬との道行きは迷惑ではないと言ってくれたばかりの氷河が――より正確には、『迷惑だ』と明言しなかった氷河が――突然そんなことを言い出した訳が、瞬にはわからなかったのである。
いつかは兄の許に帰るにしても、それはずっと先のことで、まだ当分は氷河との旅を続けられるものと、瞬は思い込んでいたのだ。
氷河も同じ気持ちでいてくれるものとばかり思っていた。
が、それは瞬の早合点だったらしい。
氷河は、やたらと張りきっている瞬とは対照的に妙に怠そうな様子で、食堂の卓に腰をおろした。

「初めて会った日に、男だということが気にならないほどおまえは綺麗なんだってことを教えてやっただろう。おまえは自覚がなさすぎる。同じ部屋で寝るのは そろそろ限界なんだ」
「それはどういう意味なの」
瞬がそう尋ね返したことが、氷河の疲労を更に募らせることになったらしい。
氷河はますます気怠い顔になり、そして、瞬の疑念には答えてくれなかったのである。
共に確たる目的地のない者同士、できるなら この旅をいつまでも続けていたいとさえ、瞬は願っていたというのに。

瞬が 重ねて氷河を問い質そうとした時、食堂内のあちこちのテーブルを行ったり来たりしていた宿の主人が、瞬たちのいるテーブルの脇にやってきた。
「お二人も、オルコメノスに向かってるんですか? 今日、あの山の向こうに行くのは考え直した方がいいですよ。こっちは夕べもいい天気でしたけど、山の向こうでは大変な豪雨だったんです。こういう日の翌日には必ずケピソス川が氾濫する。今日一日様子を見た方がいい」
「豪雨? こっちはあんなに晴れてたのに?」

山を一つ隔てただけだというのに、これほど近い場所でそんなことがあるのかと、瞬は驚くことになったのである。
そして、その自然現象を、まるで自分と氷河のようだと瞬は思った。
自分の心は快晴で希望に満ちていたというのに、身体ひとつ隔てたところにある氷河の心中は、豪雨とまではいかないにしても決して晴れてはいなかったのだ――。

「あの山が雨雲を全部受けとめてくれるんで、雨はこっちまでは滅多にこないんです。だから、こっちは乾燥した土地で農作物もあまり育たない。山の向こうは水に不自由はしないので農業が盛んなんですが、川の氾濫が多い。この時季にはよくあるんですよ。一晩 水を溜め込んだ山が、突然限界を越えて、水瓶をひっくり返したような鉄砲水が出るんです。人死にも多くてね。ここは そういう時の待機所を兼ねている宿で、一日 出立が遅れても宿代は取りませんよ。食事代だけは出してもらうことになりますが」

見るべきものもなさそうな小さな村の小さな宿の繁盛には、そういう理由があったらしい。
瞬が不安げに氷河の顔を見上げると、いつのまにか彼の表情からは先ほどまでの気鬱の色は消えていた。
「山向こうに行く」
宿の主人の忠告を聞いたにもかかわらず――聞いたからこそ?――氷河はきっぱりと彼の決定事項を口にした。
宿の主人が、無謀な旅人の前で短い吐息を洩らす。
「山の水は出ないかもしれないが出るかもしれない。少しでもおかしな気配があったら、諦めて戻ってきた方が安全ですよ。お一人じゃないんだし」

宿の主人が心配しているのは氷河の連れの か細い子供の方で、氷河当人ではないようだった。
「ああ。わかってる。ありがとう」
氷河もそれは心得ているらしく、彼は親切な宿の主人に 至極真面目な顔で頷いた。






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