宿の主人の言葉は事実だった。
山を迂回するように裾野伝いにある道を半分も進むと、瞬たちは 宿の主人の言っていた山の水が既に出てしまっていることを知ることになった。
出水はごく小規模で局地的なものだったらしく、それはオルコメノスの村の西側を流れるケピソス川の支流を氾濫させただけで済んだようだった。
問題は、不運にも氾濫した川の中州――おそらく今朝までは川岸だった場所――に、子供が二人取り残されていること。
流れが急すぎて、誰も子供等を助けに行けずにいるらしいことだった。

現在 川岸になっている場所も、かなり地盤が緩んで危険な状態にあるようで、付近の住人たちは皆 高台に避難して、子供等の様子を見守っている。
母親らしき若い女が一人、危険な川岸で必死に子供たちの名を叫んでいた。
中州に取り残されている二人は兄弟らしい。
すぐ間近を流れる濁流に怯え震えている弟を、兄が抱きしめ励ましているようだった。

そんな兄弟の様子を見て、瞬は、こんな大変な時だというのに、幼い頃の自分と兄の姿を思い出すことになったのである。
両親を一度に事故で亡くした日。
死の意味もよくわからず、ただただ不安でいた瞬を、彼自身まだ10歳にもなっていなかったというのに一晩中 抱きしめ励まし続けてくれていた兄――。

自分たちの姿が重なる二人の兄弟を どうにかして助けてやらなければと、瞬は思ったのである。
だが、その術がわからない。
出水に慣れているはずの村の住人たちが手をこまねいて見守っているだけなのだから、その方策はない――のかもしれなかった。
ただ兄弟が無事でいるうちに水が引くのを祈ること以外には。
だが、水の勢いは治まるどころか、更に激しさを増しているように、瞬には見えた。
普段は穏やかで水深も浅く、容易に渡れる川なのだろう。
瞬が見渡した限りでは、近くに橋もない。
舟を出すことも、この急流では到底無理なことのように思われた。

だが、助けたい。
しかし、そのための策が思いつかない。
目が痛くなるほどに青く晴れ渡った空と自身の無力に苛立って、瞬が奥歯を噛みしめた時だった。
「渡るのは簡単だが、子供を二人運ぶのは面倒だな……」
という氷河の呟きが聞こえてきたのは。

『渡るのは簡単』と氷河は言うが、瞬にはとてもそうは思えなかった。
氷河は己れの力を過信して まともな判断力を失ってしまったのかと疑って、瞬は自分の横に立つ男の顔を見上げることになったのである。
氷河は、危険な川岸で子供たちの名を叫び続けている母親の姿をじっと見詰めていた。
そして、彼はやおら行動を開始したのである。

「この川に渡せる長さがある丈夫な綱を持ってこい」
高台に避難している村の者たちに、氷河は命じた。
村人たちは、突然そんなことを言い出したよそ者に少なからず驚いたようだったが、有無を言わさぬ氷河の口調と態度に逆らうことは、彼等にはできなかったらしい。
氷河が求めたものは、まもなく氷河の前に運ばれてきた。

地盤が緩んだ川岸では、土も木も岩もすべてが頼りない。
そこに綱を結びつけられるような物は一つもなかった。
綱は手配できたが、氷河はいったいそれでどうするつもりなのかと訝る瞬の前で、氷河は実にとんでもないことをしてのけた。
彼は、綱の一方の端を土手の土の中に埋め込み、そうしてから、なんと土手そのものを固く凍りつかせてしまったのだ。
文字通り、凍りつかせてしまったのである。
氷河が綱を埋め込んだ土手は、土の色をした氷の小山になっていた。

いったいどうすればこんなことができるのか――。
あっけにとられている瞬と村人たちの目の前で、氷河は次に、綱のもう一方の端を持って川の向こう岸に跳んだ。
助走もなく、軽々と。

「え」
川岸の土手の位置から察するに、本来その川の幅は5尋ほどだったのだろう。
が、今はその川幅は10尋以上ある。
成人男性が10人、両手を伸ばしてやっと端から端までを結べる距離。
氷河はその広い川を、道に転がっている小石をよけるような気軽さで、あっさりと飛び越えてしまったのである。
尋常でない跳躍力――。
川岸におりて泣き叫ぶ母親を落ち着かせながら、氷河の跳躍を間近で見ることらなった瞬には――おそらく高台に避難している村人たちにも――それは神業としか思えない行為だった。

氷河は向こう岸でも同じように土色の氷の小山を作り綱の端を固定させると、また軽々と10尋の幅のある川を飛び越えて、瞬のいる川岸へと戻ってきた。
「あんな氷、どうやって……どこから……」
瞬は、氷河の為すことをただ見詰めていることしかできなかった。
が、もはや瞬は優雅に己れの無力を嘆いてはいなかった。
氷河の行動は、そんな無意味な嘆きを瞬に忘れさせる次元のものだったのだ。
「土中や空気中にある水を冷やして凍りつかせるんだ。川そのものを凍らせることもできないわけではないが、それをしてしまうと、氷が流れを堰き止めることになって、逆流した水が川上の畑にあふれ出ていきかねないからな」
「……」

瞬が知りたいことは、氷の材料をどこから・・・・調達したのかということではなく、どうやって・・・・・凍らせたのかということだった。
説明されても理解することはできないような気はしたが。
これは人間の仕業ではない。
少なくとも、尋常の人間にできることではない。

ともかく両岸に綱が渡った。
「この綱に籠を渡して子供たちを運ぶ。籠か籠の代わりになる大きな布か網はないか」
もはや その場には、自分たちがよそ者の命令に諾々と従っていることに奇異の念を抱く者はいなくなっていた。
川岸の土手に避難していた者たちが、すぐに漁で使う網を氷河の前に運んでくる。
氷河はその網を手にすると、今度は彼自身が濁流の中に飛び込んでいった。
「氷河っ」

子供たちが取り残されている中州は狭く脆く頼りなく、子供たちの安全を考えれば氷河が直接そこに飛ぶことは、確かに危険な行為だったろう。
とはいえ、氷河の身の安全を考えれば、彼が濁流に飛び込むことはほとんど自殺行為である。
だが――。
尋常の人間であれば、一時いっとき 立っていることもままならず流されてしまうだろう流れの中で、尋常の人間でない氷河は、大岩をも転がすような濁流に呑まれることも流されることもしなかった。
易々と中州に行き着くと、彼は幼い子供の方を網で包み、それを川の上を渡る綱に結わえつけた。
自分は川の流れに身を置いて、子供の入った網を手で支え、川岸にまで運んでくる。

そうして氷河が最初に助けた子供は、岸で待っていた母の胸に飛び込む前に、
「おにーちゃんを助けて!」
と氷河に懇願してきた。
氷河は、兄の身を案じる幼い子供に微笑んで、
「すぐ連れてくる」
と答え、もちろん その言葉をすぐに実現してのけたのである。
川岸で兄の帰還を待っていた弟が兄の胸に飛び込み、そんな二人を母親が抱きしめる。
母子の顔はどれも涙で濡れていて、母子の抱擁を認めるや、高台に避難していた者たちの間から 安堵と歓喜の声が湧き起こった。

「ありがとうございます……ありがとうございます……! あの、どちらから……お名前は……ああ、ありがとうございます。お名前は――」
「礼はいらん。暇だったんだ。あんたの子供等は二人共よく頑張った。褒めてやれ」
氷河は、二人の子を抱きしめた母親に、名を名乗ることをしなかった。
つまり、氷河は、自分を厚遇してくれる君主を求めて売名行為を行なう英雄志願ではない――ということになる。
売名行為どこころか、英雄志願でない英雄は、まるで子供等の母親の感謝や礼から逃げるように、すぐに踵をかえしてしまった。
氷河の為すことを ただ呆然と見ていることしかできなかった瞬は、なぜか急いで その場を離れようとしている氷河のあとを慌てて追いかけたのである。

「どうしてあんなこと」
氷河に追いついて、だが彼の横に並ぶことに気後れを覚えた瞬は、少し距離を置いたところから氷河の背中に向かって尋ねることになった。
その歩を止めずに、氷河が答えてくる。
「二人一緒に運ぶのは無理だったんだ」
「そうじゃなくて、知らない子供でしょ。氷河の方が流されて死んでたかもしれないんだよ」
「おまえだって逃げてよかったんだぞ。あの岸は危なかった。おまえの倍もでかい図体をした男たちが土手の上に避難していただろう」
「僕だけ逃げるなんてできるわけないでしょう。あんな小さな子供たちが必死だったのに……! そりゃあ、僕は……僕は、あの子たちのために何もできなかったけど……」

「そういうことだ」
氷河の声が妙に近くで聞こえる。
怪訝に思った瞬が伏せていた顔をあげると、氷河はその歩を止め、瞬の方を振り返ってくれていた。
こくりと息を呑んでから、思い切って尋ねてみる。
「あなた誰。何者なの」
「……聖闘士だ」
「だと思った」

想像した通りの答えが返ってくる。
つまり、そういうこと。
氷河のあの尋常でない力は、瞬が毛嫌いしていた聖闘士の持つ力だったのだ――。






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