そういう経緯で、セイヤたちはヒョウガが世話になっているカミュ公爵の館に呼びつけられたのだった。
サロンに お上品なメンバーたちがいさえしなければ、セイヤは、カミュの館とそのサロンが、実はそう嫌いではなかった。
ヒョウガが身を寄せている館の持ち主であるカミュは、ヒョウガの亡き母とは歳の離れた従姉弟同士だったらしい。
その洗練ぶりを シュンのサロンと争っているだけあって、シュンのサロンに造りが似ており、少なくともそこは宮廷よりは くつろげる場所だった。

前世紀までの主流だった 建物の中央からまっすぐに登る階段という通念を破り、入り口から半円形にカーブを描く階段。
その階段を上がったところに、カミュが主宰する『美しいフランス語』を語り合うための客室サロンがある。
部屋の壁は水色のビロードで覆われ 金銀のモールがあしらわれているのだが、従来のパリの貴族の館の壁の色は赤や茶褐色が主流だったので、これは非常に斬新で上品な趣味だった。
ちなみに、シュンのサロンもほぼ同じ造りになっていたが、シュンのサロンの壁の色は白。
シュンのサロンは、なにしろ主人が若年の男子だったので、壁にベッドを置くための窪みアルコーヴはなく 幾つかの椅子やテーブルがあるだけだったが、カミュのサロンにはベッドがあり、女性客が来た時にはそこでくつろぐことができるようになっていた。

今日は館の主が留守らしく、恋する男に呼びつけられた友人たちの他に訪問客はいない。
パリで最も“相手を喜ばせる礼儀正しい態度ガラントリー”を極めているとされている部屋で、ヒョウガがこんなに面倒な男だったなら、ヒョウガの友人になどなるのではなかったと、セイヤは今になって その事実を後悔していたのである。

セイヤとシリュウがヒョウガと知り合ったのは、彼等がサヴォアからパリに出てきて1ヶ月が過ぎた頃。
『サロン隆盛と言われている現代でも、宮廷は やはりフランス第一の社交の場なんだから、そこがどんなところなのか見ておくのもいいかもしれないよ』
とシュンに言われて、彼等はシュンの付き人として宮廷に赴いたのである。
滅多に宮廷に伺候しないシュンが、その日その場に赴いたのは、国王じきじきの要請があったから。
そして、国王がシュンを呼び出したのは、外国からフランス王室に特別な客人があったからだった。

やってきたのは、王妃マリー・ド・メディシスの従妹であるイタリア・トスカーナ大公の姪――つまり、フィレンツェの大公女――とはいえ、元は商人であるメディチ家の娘。
シュンが招かれたのは、彼女を歓迎するために国王が主催した舞踏会だった。
その大公女にフランスのガラントリーを示してやってくれと、シュンは国王からの要請を受けたのである。
シュンと双璧を成すサロンの主宰者であるカミュも国王の招きを受け、その日は彼のサロンを出て宮廷にやってきていた。
そして、そのカミュに、『フランス宮廷の俗悪さを一度は見ておくべきだ』と言われて、ヒョウガもまたその場に来ていたのである。
とにかく、その日の主役は一応、イタリアからやって来た大公女ということになっていた。

既に落日に入っているイタリアだが、前世紀のイタリア戦争以来、フランス人の“イタリアへの憧憬”は未だに健在。
大公女には 洗練されたイタリアから蛮人の国フランスにきたという意識があるらしく、フランス宮廷とそこにいる者たちを見下すような大公女の態度は、遠目にも――ホールの壁際に立っていたセイヤたちにも容易に見てとることができていた。

大公女のそういった態度は、シュンの『対峙する相手への敬意と思い遣りこそが礼儀作法シヴィリテ』という考えとは真っ向から対立するものである。
しかもシュンは言ってみれば子供で、大公女はシュンより10歳は年上。
フランス国王夫妻の御前で、フランス最高のガラントリーの体現者と紹介されたシュンを、彼女ははなから馬鹿にしていた。
「メディチ家のカトリーヌがフランス宮廷にやってくるまで、フランスの貴族たちは皆、手掴みで食事をしていたというじゃないの。それからフランス宮廷がどれほど洗練されたのかは知らないけど、この宮廷に私に洗練や作法を示すことのできる者がいるとは思えないわ」
というのが、国王に紹介されたシュンに対する大公女の第一声だった。

かつてのイタリアの栄光は衰退し、欧州の中心は既にフランスに移っている。
その事実が逆に、彼女を依怙地にしているのかもしれなかった。
が、だからといって、衆目のある公の場で イタリアに対するフランスの優越をイタリアの大公女に指摘し、彼女に恥辱を与えるようなことのできるシュンではない。
それはシュンの考えるガラントリーに反する行為である。
だから、シュンは、彼女の前で滔々とうとうと自分の意見を述べるより、彼女の気を逸らすことを考えたのだったろう。
「そうですね。では、ダンスはいかがですか。姫のお相手をと望む紳士オネットムがここには大勢 控えていますよ」
と、シュンは大公女にダンスを勧めた。
そんなシュンに、大公女が尋ねてくる。
「あなたは踊ってくれないの」
「え」

言われて、シュンは瞳を見開いた――ようだった。
シュンにはそれは想定外のことだったのだろう。
「あの……僕は、姫君より背の低い子供ですし、姫のダンスのお相手は、もっと姫にふさわしい――」
「フランスの宮廷では、背の高い女はダンスも拒まれるの!」
「そうではなくて……」
大公女の金切り声がホールに響き渡る。
壁際にずらりと並び、王の前で為されるやりとりを見守っていた貴族たちが、一斉に緊張したのがセイヤにはわかった。
が、シュンが大公女の前で立ち往生している訳が、セイヤにはわからなかったのである。
セイヤたちにダンスを教えてくれたのはシュンだった。
シュンが踊れないわけはないのだ。

「なんだ、あの女は……」
貴族席でシュンの次に呼ばれるのを待っていたカミュが、不快そうに あまり美しいとは言い難い言葉を呟いたのが、彼の席に近くにいたセイヤに聞こえてくる。
故国を愛すればこそ故国の言葉の美しさを探求しているカミュにしてみれば、故国を貶めるような異国の大公女の態度は、到底 美しいものとは思えなかったのだろう。

セイヤはフランスが誇る文法家の憤りに大いに同感したのだが、彼は異国の大公女の無礼に憤ってばかりもいられなくなったのである。
その時 セイヤは、ある可能性に思い至ってしまったのだ。
それは、つまり、
「あいつさ、もしかして、女と踊ったことねーんじゃねーの」
という可能性。
「ありえるな。シュンのサロンの生徒は、地方から出てきた野暮な男ばかりだ」
シリュウが、いつになく鋭い推理を見せるセイヤに軽く頷いてきた。

男性相手に踊れるのだから、全く踊れないわけではないだろうが、こういう場所で、しかも相手が異国の王女となれば ちょっとした粗相も許されない。
そんなことになったら、この高慢な大公女は、その些細な粗相をあげつらって、フランス宮廷――ひいては、フランス王室に泥を塗りかねないのだ。
できれば、シュンは、そういう事態を避けたかったのだろう。

カミュの席の後ろに控えていたヒョウガの耳にセイヤたち――ヒョウガは、その時はまだ彼等がシュンの友人とは知らなかった――のやりとりが届いたのは、幸運というべきか不運というべきか。
人事ながら、そして、他国の宮廷での出来事とはいえ、大公女の高慢に うんざりしかけていたヒョウガが、カミュの席の前に出る。
そうしてヒョウガがシュンと大公女の側に――つまりは、フランス国王夫妻の御前に――進み出たのは、明確に宮廷の作法に違反する行為だった。
が、ヒョウガには、異国から出てきたばかりでフランス宮廷の作法を心得ていない(と言い訳できる)強みがあったのである。
彼はいったい何者なのかと訝る列席貴族の前で、ヒョウガは、重ねて、王の許しを得ずに発言するという無作法をしてのけた。

「はるばるイタリアからやってきたんだ。フランスの優男と型通りのダンスを踊るより、土産話になるようなダンスを見て帰った方がいいだろう」
「え?」
「俺は、ほんの2日前にフランスより更に未開で、作法の『さ』の字もないロシアから出てきたばかりの野蛮人だが、ちょうどいい機会だ。ロシアはもちろん、フランスより はるかに洗練されたイタリアの大公女様に、野蛮なロシアの踊りを披露してやろう」
「……」

ヒョウガの提案に仰天したのは、突然 見知らぬ男にそんなことを言われてしまったシュンだけでなく、洗練されたイタリアからやってきた大公女だけでなく、ヒョウガを宮廷に連れてきたカミュだけでなく、シュンの身と立場を案じていたシュンの友人たちだけでもなかった。
彼等だけでなく、事の成り行きをはらはらしながら見守っていた国王夫妻と 数百人の貴族と その従者たちが――つまり、フランス宮廷全体が――驚いた。

「どんな曲でもいいから、とにかく できるだけ速く演奏しろ」
他国の貴族たちの驚愕など意に介したふうもなく、ヒョウガが楽団に大声で命じる。
そうしてヒョウガは、イタリアの大公女ではなくシュンの手を取り、ほとんどその身体を引きずるようにしてシュンをフロアの中央に連れ出したのである。

玉座にいた王が軽い痙攣のように顎を動かしたのを、演奏家たちは演奏開始の合図ととったらしい。
それがなくても、ヒョウガの迫力に押されて楽器を構えていた彼等は、すぐにヒョウガの要望通りの演奏を始めた。
その演奏に合わせてヒョウガが、ごく普通の――と言っていいのかどうかには多少問題があるが――カップル・ダンスを踊り始める。
それは、つい先日、『男女が抱き合って踊るのは無作法である』として、国王ルイ13世より禁止令が出たばかりのダンス――ボルタ――だった。
その無作法なダンスを、ヒョウガは、王の目と衆目のある場所で堂々と踊り始めたのである。

最初は戸惑っているようだったシュンが、すぐにヒョウガに合わせられるようになったのは、シュンのポジションが女性のそれだったからだったろう。
ヒョウガの指示通りに演奏は異様に速く、だが、もともと敏捷で勘がよかったシュンは、長いドレスを着ているわけでもなかったので十分に彼についていくことができた。
女性のポジションでなら、シュンはダンスを踊り慣れてもいたのだ。

「まあ……! まあ、まあ!」
イタリアからやってきた高貴な大公女が、レオナルドがフランスに持ち込んだ名画より いい土産(話)になりそうな男同士のダンスに目を輝かせて歓声をあげる。
彼女は、二人のダンスが終わると、ヒョウガの無礼を咎めることもなく、気負い込んで尋ねてきた。
「驚いたわ! ロシアではこういうダンスが流行っているの!」
それは紛れもなくフランスのダンスだったのだが、ヒョウガは白々しく彼女に頷いてみせた。
「未開の国の野蛮な踊りだが」

かつては欧州最高の文化と繁栄を誇ったイタリアの大公女の矜持。
それは実に屈折したものだった。
それは、つまり、イタリアの栄光の座を奪ったフランスは意地でも賞讃したくないが、誰もが認める蛮族の国ならいくらでも褒めることができる――というものだったのである。
その余興が、彼女は大いに気に入ったようだった。
「そんなことはないわ。素晴らしく粋なダンスだったわ」

セイヤは、それまで思いがけない展開にあっけにとられていた国王が何か言うのではないかと懸念していたのだが――なにしろ未開の地からやってきた野蛮人は、そのダンスを禁じた当人の前で禁止されたダンスを披露してのけたのだ――王は、その件については何も言わなかった。
「余が禁じたのは、男女が淫らな踊りを踊ることだ」
という言い訳めいたことを呟いた他には。
王がそう言ったのは、ここでヒョウガを罰することは不粋であるという考えもあったろうが、それよりも、フランス宮廷の体面を維持しつつ この場を治めるには そういう裁定を下さざるを得ないという側面もあったろう。
そして、王のその言葉を聞いた貴族たちは、安心して、二人の踊り手に喝采を送ることになったのである。






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