シュンにこんな格好の人間を紹介したら、シュンはいったい何と言うのか――。
興味津々でセイヤとシリュウは、ヒョウガをシュンのサロンに連れていったのである。
シュンの第一声は、もちろん『だっせー』ではなかった。

「はじめまして。シュンです、よろしくお願いしますね」
セイヤの目には僅かに首をかしげたようにも見えたが、シュンはほとんど その表情を変えず、いつもの親しみやすい微笑で、初めての客人をそのサロンに迎え入れてのけたのである。
ヒョウガの苦心の変装に、驚嘆の言葉一つ、業額の素振り一つ見せずに。

「は……はじめまして」
田舎者らしく、おどおどした振りをしようとしていたのだが、ヒョウガは意識して田舎者の振りをする必要はなかった。
ほぼ1ヶ月振りに出会った恋しい人。
手をのばせば触れることができるほどシュンの側近くにいるという事実が ヒョウガを緊張させ、ヒョウガは 意識して田舎者の“振り”をする必要もなかったのだ。

「セイヤやシリュウの同郷のお友だちだそうですね。パリは初めてと伺いましたが」
シュンはヒョウガの風体に駄目出しをすることはなかったのだが、ただ、彼の顔の半分近くを覆い隠している前髪は気になったらしい。
「その髪……」
シュンは不安そうな目をして、ヒョウガの(隠れている)顔を見上げてきた。
「前は見えているんですか? 危なくありません?」

パリのガラントリーを身につけたかったなら まずその髪をどうにかしろと言われる事態を、ヒョウガは避けたかった。
あの無責任な噂は、シュンの耳にも届いているに違いないのだ。
顔を見られてしまったら、一発で、それが“軽薄な遊び人”の持ち物であることがばれてしまうだろう。
ヒョウガは、慌てて右の手で髪を押さえることになった。

「あ、これは――俺は目が弱いんだ。光をまともに見ると痛みを覚えるくらい。不愉快でも、我慢してもらえると嬉しい」
「それは……カーテンを引きましょうか」
「いや、室内の光くらいなら大した負担ではないんだ」
「あ、こいつのことは“ヒョウガ”って呼んでやってくれ。本名は恥ずかしくて言えないんだとさ。今 パリでいちばんの遊び人と名高いヒョウガみたいになりたいとかで、その目標をいつも意識していられるように、ヒョウガで通したいんだと」
セイヤが、助け舟なのか、溺れる者を更に水の底に沈めるかいなのか、判別の難しいものをヒョウガに提供してくる。
セイヤの悪ふざけは、一瞬、ヒョウガの背筋をひやりと凍りつかせた。

「ヒョウガ……」
その名の持ち主についてセイヤに尋ねないところを見ると、やはりあの無責任な噂はシュンの耳にも届いているらしい。
落胆と、変装作戦は正解だったという安堵の思いとを、ヒョウガは同時に味わうことになった。


ともあれ、シュンは、“ヒョウガ”に対して優しく親切だった。
顔を隠すための前髪に遮られ 視界が明瞭でないせいで、ヒョウガの動作は相当ぎこちないものになっていたのだが、それが田舎っぽい無骨に見えたのか、シュンはヒョウガに殊更 優しく接してくれた。
宮廷での作法、宮廷外での作法、そもそも“礼儀作法シヴィリテ”とはどういうものなのかという事柄まで、シュンは“田舎から出てきた純朴な好青年”に懇切丁寧に教えてくれたのである。

と言っても、シュンのサロンの唯一最高の規則は『対峙する相手に敬意を払え。自らを実際よりよく見せるために、自らを偽ることはするな』というもので、シュンの講義――むしろ それは“会話”に近いものだったが――は、面倒な礼儀作法を教え込むようなものではなかった。
カミュが彼のサロンで、フランス語の純正ピュルテ明確さネットテを重視し、フランス語の雅趣優美を顕示することこそがフランス人の崇高な義務と言わんばかりに、やたらと厳しく細かいルールを語るのを漏れ聞いて ヒョウガはうんざりしていたのだが、シュンのレッスンはカミュのそれとは全く趣が違っていた。

対峙する相手を尊敬し、気遣っていれば、洒落た言動を実行しなくても、相手はわかってくれるはずだから、自信過剰にならない程度に萎縮せずにいればいい。
ただ、作法を知らないことは萎縮や卑下を招くから、一通りの規則だけは知識として覚えておいた方がいい――というのが、シュンの提唱する作法のスタイルだった。
シュンの唱える礼儀作法シヴィリテは 人を傷付けないための作法で、その根本にあるものは他者に対する敬意。

“純朴な好青年”という触れ込みは偽称であるにしても正真正銘の“田舎者”であったヒョウガには、シュンの考え方は非常に好ましいものに思われた。
だから、ヒョウガは、シュンの素直で熱心な良い生徒になることもできたのである。
シュンのサロンで過ごす時間は、ヒョウガにとって実に有意義で、かつ、夢のように幸せな時間だった。
シュンのサロンに通うことで、実際 ヒョウガは、言葉遣いはさておき、その精神だけなら、以前よりはかなり礼儀正しい男になっていったのである。

もっとも、ヒョウガは、ダンスの実技練習だけは、それをしたら すべてがばれてしまいそうなので、遠慮していたのだが。
「セイヤにはダンスを特に教えてやってくれって言われていたんですけど」
と怪訝そうにシュンに尋ねられた時には、
「宮廷に出てダンスをするつもりはないんだ」
と答えて、その場をごまかした。

とはいえ、うまくシュンをごまかしきれたのかどうかは、ごまかされる立場のシュンならぬ身のヒョウガには、今ひとつ確信に至ることはできなかったのだが。
実際、シュンは、不思議そうに、
「宮廷に出るつもりはないのに、ここにいらしたの?」
と、重ねてヒョウガに尋ねてきた。
シュンの生徒たちの多くは、宮廷で恥をかかないために、その事前学習としてシュンに教えを乞いに来る者たちだったから、シュンの質問は至って自然なもので――ヒョウガの その場しのぎの言い訳を疑ってのことではなかったのかもしれないが。

ヒョウガは、そんなシュンに少々不自然に首肯し、更に言い訳を重ねることになった。
「俺がパリに出てきたのは、ごく基本的な貴族のマナーを身につけるためと、まあ、そして、よい友人と、できれば美しい恋人に出会えることを期待したからなんだ」
「友人は――セイヤたちがそうでしょう。セイヤたちは、僕にとっても、気がおけなくて、気取りがなくて誠実ないい友人ですよ。でも恋人は――」
言いかけた言葉を、シュンは一度途切らせた。
そして、切なげな微笑と共に言葉を継ぐ。
「恋人は出会おうと思って出会えるものではないでしょう。恋は、ある日突然舞い降りてくるものだから――」

いつもは人の心を落ち着かせるような穏やかな微笑を浮かべているシュンの、どこか苦しげな眼差し――が、ヒョウガの心に引っかかった。
この段になってヒョウガは、なぜ自分はその肝心なことを これまで確かめずにいたのかと、自らの迂闊に臍を噛むことになったのである。
シュンと同じ空間で、シュンと同じ時を過ごせることに浮かれ、ヒョウガは恋する男として最も重要なことをシュンに確かめずにいたのだった。

「あー……。シュンにはそういう経験があるのか。好きな人がいるのか」
「……そんな人はいません」
シュンがヒョウガにその答えを返してくるまでには、微妙な間があった。
時間にして数秒。
だが、その数秒は、シュンが、知り合って日の浅い友人に真実を告げることが無益か有益かを迷い、『無益』という結論に至るのに十分な時間だったろう。

「……そうか」
シュン同様に微妙な間を置いて頷きながら――それは嘘だと、ヒョウガは確信していたのである。
それはもう、恋する者の直感だった。
シュンのサロンに生徒として出入りするようになって1ヶ月。
この茶番はすべて無駄な努力だったのだと、ヒョウガは思い知ることになったのだった。






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