「俺はおまえが好きだ。おまえが俺以外の誰かをどれほど好きでいるのだとしても」 礼儀作法シヴィリテ創意エスプリもない、それが玉砕を覚悟したヒョウガの恋の告白だった。
一瞬 驚いたように目をみはったシュンが、やがて力なく瞼を伏せる。
シュンは、そして、悲しげにヒョウガに告げた。

「僕、好きな人がいるんです。お気付きなんですね」
「どこの誰だ」
「それは……言えません……」
「俺は、おまえに、失恋を逆恨みするような男だと思われているのか」
「そうじゃなくて、これは誰にも秘密なの。誰にも言えない。もし人に知られるようなことがあったら、その人に迷惑がかかるから……」
「迷惑? 迷惑とはどういうことだ。人に好かれて――まして、おまえに好かれて、それを迷惑に思うような人間がいるわけないだろう!」
「迷惑がかからなくても、僕なんかに好かれてるなんて、あの人が笑われてしまう。……あの人も笑うでしょう」
「誰がどう笑うというんだ! おまえの家はフランスでも指折りの名家で、おまえの兄は異例の早さと若さでフランス軍の元帥にまでなっているし、おまえ自身はフランスで最も有力なサロンの主宰者だ。おまえの恋を笑える人間など――」

このフランスで、シュンに恋されて それを迷惑に思ったり笑ったりするような人間に、ヒョウガは全く心当たりがなかった。
そんな人間は せいぜい国王か王妃くらいのもの。
どんな大貴族でも、たとえ王女であっても、フランス随一のサロンを主宰する美少年に好意を持たれていることを知ったなら、その人間は悦に入りこそすれ、迷惑がるようなことは決してないだろう。

「身分の問題ではないの」
シュンが つらそうに唇を噛む。
ヒョウガは、そんなシュンを見ているのが つらくてならなかった。
今の自分の顔が嫉妬に歪んでいるのか、絶望に打ちひしがれているのかは ヒョウガ自身にもわからなかったが、その顔を隠してくれる鬱陶しい前髪を、今ほど有難いと思ったことはない。
「おまえが好きな相手の名も教えてもらえないのか」
シュンはヒョウガのその言葉にも無言で――シュンはヒョウガに沈黙の答えしか返してくれなかった。

「そうか……。では、さようならを言うしかないな。俺はパリを去ることにする。俺がおまえにとって、恋どころか、信頼も友情も育めない無価値な男と思い知った」
「あ……」
シュンの提唱する礼儀作法シヴィリテの最も重要な定立は『対峙する相手への敬意』そして『相手を傷付けないこと』だった。
ヒョウガの投げやりな言葉はシュンを戸惑わせ、迷わせ、そして苦しめたらしい。
人を傷付けることに、シュンは慣れていないのだ。
踵を返しかけたヒョウガに、シュンは声ですがりついてきた。

「そ……そうじゃないの。僕が言えないのは――」
「言えないのは?」
恋を失ったのはヒョウガの方だというのに、傷付いているのはシュンの方であるように見える。
実際 ヒョウガは恋を失って自棄になり、少しばかり残酷な気分になってしまっていたのかもしれなかった。
ヒョウガより ヒョウガの恋に傷付いているシュンが、か細い声で冷酷な男に答えてくる。

「僕の好きな人は、その……とてもご婦人方に人気のある人で――きっと華麗な恋の遍歴を重ねてらした人で、僕なんかに好かれてるなんてことは、あの人の不名誉にはなっても名誉にはならないから……」
「華麗な恋の遍歴? なぜ、おまえがそんな軽薄な男に……! いったい、おまえが好きな奴というのは どこの誰なんだ!」

シュンに恋されている相手というのが、それこそ田舎から都会に出てきたばかりの純朴で誠実で、シュンの優しく清らかな心を理解し崇拝している善良な人間だというのなら、自分の恋を諦め、身を引く気にもなれる。
だが、それが軽薄に恋愛遊戯を重ね、そんなことで粋がって、シュンの心を傷付けている不誠実な人間だというのなら、話は全く別だった。
シュンが、そんな人間と、たとえ結ばれることがあったとしても、シュンが幸福になれるとは思えない。

シュンに好きな相手がいることを知ったヒョウガが、シュンから身を引くことを決意したのは、シュンの思いが真剣で揺るぎないものに見えたからである。
そして、シュンに幸せになってほしかったからだった。
だが、恋を遊戯の一種としか考えていないような、シュンの清らかな心にふさわしくない不誠実な人間に、シュンを幸せにすることができるだろうか。
へたをするとシュンは、その華麗なる恋の遍歴とやらを重ねてきた愚か者に弄ばれ捨てられて、一生消えることのない傷を心に負うことにもなりかねない。
ヒョウガには、それは、決して看過することのできない事態だった。

そんなことになる前に――シュンが恋した相手の名を聞き出し、すぐにも その馬鹿者をとっつかまえて殴り倒し、場合によっては 剣でその顔を二目と見られぬように切り刻み、二度とシュンの前に出られないようにしてやらなければならない。
ヒョウガは、そう思った。
否、そうすることを ほぼ決意していた。
その決意を実行に移すためには、まず シュンの恋した相手の素性を知らなければならない。
何とかして その不埒者の名を、シュンに白状させなければならない。
ヒョウガは、それこそ不退転の決意で、シュンの両腕を掴みあげ、シュンを(鬱陶しい前髪の間から)睨みつけた。

その名を告げることをためらっていたシュンが、ヒョウガの尋常でない剣幕に気圧けおされたように、小さな声でヒョウガの詰問に答えてくる。
「外国から来た人。有名だから ご存じでしょう。あなたが お名前を借りた人。カミュ公爵のご親戚の――」
「へ……」

すぐにも その馬鹿者をとっつかまえて殴り倒し、場合によっては剣で その顔を二目と見られぬように切り刻み、二度とシュンの前に出られないようにしてやらなければならない――という、ヒョウガの決意は、もちろん固いものだった。
シュンからシュンの恋した相手の名を聞きだしたなら、ヒョウガはすぐにも その足で 軽薄で愚かな その遊び人の許に向かうつもりだった。
自分は一瞬のためらいもなく そうするだろうと、ヒョウガは思っていたのである。
シュンが恋した相手が誰であっても。

「カ……カミュコーシャクのゴシンセキのガイコクからキたヒトというと、まさか、あの、野蛮人の国からやってきた軽薄な遊び人というので有名な――」
「ヒョウガはそんな人じゃありませんっ!」
「……」
どんな田舎者にも、どんなださい・・・格好をした野暮な男にも、他の有力貴族と同じように分け隔てなく敬意をもって接することのできる高貴な精神の持ち主――が、まさか、“軽薄な遊び人”というので有名な男に好意を持ってくれるはずがない。
そう考えたからこそ、ヒョウガは、“田舎から出てきた超純朴な好青年”をかたり続けていたのである。
そんなことがあるはずがないのだ。
あるはずがないのに――シュンに『ヒョウガ』の名を出されて、ヒョウガは“そんなことはありえない”という考えを持ち続けることができなくなってしまったのである。
そして、普段は物静かで大人しいシュンの激昂した様子に、ヒョウガは呆然とすることになった。
その激昂に驚いたのはシュン自身も同様だったらしい。
しばしの戸惑いのあと、シュンは、すぐに いつもの気弱げな表情の持ち主に戻ることになった。

「あ……あの……いえ、僕は 彼とは ほとんど お話させていただいたことはなくて、でも、以前 彼に助けてもらったことがあって……。あの時、ヒョウガさんはとても親切で優しくて、お母様を心から慕っているご様子で――」
「ヒョウガサンがシンセツでヤサシくて……」
それはいったい、どこのヒョウガサンの話なのだろう。

「最初はお母様が生きているみたいに話すから、微笑ましいって思っただけだったんです。僕は早くに両親を亡くしたので、羨ましいとも思った。でも、あとで彼のお母様は彼が幼い頃に亡くなったってことを知らされて――。亡くなったお母様を今でもとても慕ってて――彼は きっと、とても愛情深くて優しい心を持った人なんだろうなあって思ったんです。あの方は本当に綺麗な目をしていました。僕は あの時は すっかり ぼうっとしてて、あの人のお声もダンスも もうぼんやりとしか憶えてないんですけど、あの人の眼差しだけははっきり憶えています。彼は優しい人です……!」
「……」

対峙する相手の意見を無碍に否定する事態を避けるため、滅多に自分の意見を断言口調で言うことのないシュンが、きっぱりと断言する。
そうしてから、シュンは、ヒョウガが絶句していることに気付いたらしい。
日頃の主張に反する自分の言葉を恥じたのか、あるいは その饒舌を恥じたのか、シュンはヒョウガの前で身体を縮こまらせ、そして、その瞼を伏せてしまったのだった。

「……」
シュンの好きな相手が自分だった。
これは喜んでいいことのはずだと、まずヒョウガは思ったのである。
シュンは、“軽薄な遊び人”というヒョウガの風評を聞いていたはずだった。
だからシュンはヒョウガを『有名』と言ったのだろう。
だが、シュンは、その風評を聞いた上で、自分の目で見て判断し、その判断を信じるという、簡単なようで、その実 非常に実践の難しい行為を成し遂げてくれた。
それは嬉しい。
非常に好ましいことだと思うし、シュンがそういう人間だったことは、シュンに恋した男の胸にもシュンに対する誇らしさを運んでくるものだった。

だが、それは事実とは異なるのだ。
シュンが『親切で優しい』と思った男は、自分の恋を成就させるために、よりにもよって恋した人を騙すような卑劣漢だったのだ。
だから――自分が本当は何者であるのかを、ヒョウガはシュンに告白してしまうことができなかったのである。






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