山ほどのジャンクフードを抱えてやってきた若い女は、深夜 風もないのにガタガタと音を立てて震え始め、いつまでも震え続ける窓に仰天し、翌日 夜明けと共に母子の家から逃げていってしまった。
持ち込んだジャンクフードのほとんどを、居間のテーブルの上に積み上げたままで。

「自分が持ち込んだものは ちゃんと持ち帰ってほしいわね。本当に近頃の女の子は 躾がなっていないわ」
ぶつぶつ文句を言いながら、招かれざる客の置き土産を片付ける氷河の母の瞳は、だが、至極 満足そうに輝いていた。
これで、丘の麓の母子の家には、元の二人だけの静かな生活が戻ってくる。
町に戻った躾のなっていない客は“幽霊屋敷”の噂を更に広めてくれるだろうから、しばらくは新たな客が この家を訪れることもないだろう。
うまくすれば、今年の夏は、これきり他人の乱入に煩わされることなく過ごせるかもしれない。
そう思えば、他人の残していったゴミを片付ける作業も、氷河の母には存外楽しいものだったのである。
が――。

丘の麓の母子の家に 元の二人だけの静かな生活が戻ってくる――という、氷河の母の希望は、その2日後には空しく打ち砕かれることになった。
ジャンクフードの女性が氷河たちの家を逃げ出した2日後の午後、また別の恐いもの知らずが、氷河とその母の家にやってきたせいで。

「幽霊屋敷の噂もあまり役には立たないわね。また誰かやってきたようよ」
居間の窓から外を眺めていた氷河の母は、新たな来客が彼女の家を目指して歩いてくる姿を認め、盛大に嘆息することになってしまったのである。
近辺に人家や背の高い木等、視界を遮るものがないので、この家を目指してやってくる者の姿は500メートル先からでも確かめることができる。
先日の追い出し計画から2日と過ぎていないのに 次の来客があるなどという事態は、完全に想定外。
前の客が広めてくれたはずの噂を知った上でやってきたのであれば、今度の客は相当の度胸の持ち主に違いないと、氷河の母は気を引き締めることになったのだった。

「あら、でも、今度のお客様は男の子みたい」
氷河の母が意外の声をあげることになったのは、新たな客人が母子の家まで あと50メートルほどの距離に近付いてきてから。
なにしろ、この“幽霊屋敷”の二大 呼び物は、至福の園エリシオンさながらの お花畑、そして、この家の美男子の住人――ということになっていた。
ゆえに、母子の家に押しかけてくる客人は 圧倒的に女性が多かったのである。

「氷河ったら、まさか女の子だけでは飽き足らず、男の子にまで手を出したの」
母の軽口に、氷河が不機嫌に顔をしかめる。
息子を溺愛する母のために、彼はそういう言動を男女を問わず厳に慎んできたのだ。
たとえ冗談にでも、母にそんなことを言われるのは氷河には心外だった。

「そんなことをするわけがないだろう。これまで この家に押しかけてきた女たちだって、別に俺が声をかけたわけじゃない。勝手に押しかけてきたんだ」
「真夜中のポルターガイストへの恐怖より、ハンサムな若い男というわけね。鋭い牙も爪も持たない人類が、この地上を席巻するのも当然のことだわね。この世界に たくましい女性たちがいる限り、人類が滅びることはないでしょうよ」
合点したように そう言ってから、氷河の母は新たな客が“たくましい女性”でないことを改めて思い出したようだった。
「いずれにしても人類は安泰ということだわ」

母子がそんな会話を交わしているうちに、問題の客は50メートルの距離を歩き終えたらしい。
「こんにちは」
緑色の絨毯を敷いたような草原を てくてく歩いていた少年のものらしい声とノッカーを叩く音が、ドアの向こうから氷河たちの許に届けられる。
訪問を家人に知らせる客人からの合図に、氷河の母は軽く瞳を見開いた。
「あら、昨今は、女の子より男の子の方が礼儀正しいのかしら。これまでの女の子たちはみんな、ノックもせずにこの家に入り込んできたのに。氷河、お迎えに出てあげて」

留守を装い不法侵入を許した上で、夜中に物音で脅して不作法な客人を撃退するのが、いつもの彼女のやり方である。
いつもと違う対応を指示してくる母を怪訝に思いながら、氷河は母の言葉に従った。
氷河が掛けていた椅子から立ち上がり、玄関の扉を開けるまでの間に、氷河の母が隣りの部屋に異動する。
彼女は自分の存在を、新しい客人に知らせるつもりはないようだった。

「誰だ」
「あ……」
来客のためにドアを開けてやった人間を見て、その客人はひどく驚いたような表情を浮かべた。
それこそ、真昼に幽霊を見た人間のそれのような目で、氷河を見上げてくる。
挨拶とノッカーの音がしたから家人が出てきた――それは ごく自然な成り行きだというのに、いったいこの客は何に驚いているのかと、氷河は少しく不快の念に支配されることになったのである。
その不快を隠さずに、脅すような目で小さな客人を見おろす。
ここはホテルや貸し別荘ではないのだ。
住人は、突然の来客を愛想よく迎え入れる義務を負っていない。

とはいえ、氷河は まもなく、新たな客人の前で不機嫌な表情を維持することはなかなかの難事業だということに気付くことになった。
氷河の家を訪ねてきた新しい客人は、人懐こい目をした、非常に可愛らしい少年だったのだ。
彼が人間でなく、同じ目をした小犬だったなら、自分はためらいもせずに その身体を抱きあげ、家の中に運び入れていたに違いないと、氷河に確信させるほどに。
その、人懐こい目をした少年が、ぺこりと氷河の前で頭をさげる。

「あの、僕、瞬といいます。こちらの別荘のオーナーさんですか」
「一応、この家の持ち主は俺だが、ここは別荘なんかじゃない。ここは俺の自宅、個人の住宅だ」
「えっ」
どれほど人懐こい目をしていても、砂糖菓子のような笑顔の持ち主でも、彼は安易に拾ってしまっていい小犬ではなく人間である。
その親しみやすさに屈して優しい声をかけてしまったら、彼は突然 図々しい侵入者に変貌してしまうかもしれない。
だから、氷河は、突き放すような声音を作って彼にそう告げたのである。
告げた途端に来客の目が気弱げなものに変わるのを見て、氷河は自分の冷淡な対応を少し――否、大いに――悔やむことになってしまったのだが。

「で……でも、僕、町で、こちらに泊まれるって聞いてきたんです。とっても綺麗なお花畑や草原がある場所で、女の子に人気のある別荘ですよって言われて。僕は、あの……女性ではないんですけど、間違われたらしくて」
「別荘? 誰がそんなことを言ったんだ」
「町役場の観光課の人が」
「なんだとっ!」
公務員の無責任極まりない宣伝勧誘行為の事実を知らされて、氷河は来客の前で初めて、意図したものではない声を響かせた。
それが自然なものだったからこそ逆に、小さな客人は氷河の怒声にあまり恐れを感じなかったらしい。
彼は、氷河の怒声に、大きく嬉しそうに頷いてきたのだった。

「女の人に人気があるって、こういうことだったんですね。オーナーさんが素敵な方だからだったんだ」
「だから、俺は確かにこの家の住人だが、ここは貸し別荘でもホテルでもないと言っているだろう!」
「で……でも、僕、ここに泊まれると思って、他にホテルをとっていないんです……」
それでも――そんな心細そうな声で訴えられても――貸し別荘やホテルのオーナーではない氷河は、客に部屋を提供する義務を負っていない。
その旨を決然と客人に告げようとした氷河は、だが、そうすることはできなかった。
役場の担当者にそう紹介され、その紹介を信じて ここまでやってきたというのなら、この少年は偽の宣伝の被害者である。
この少年は、何も悪いことをしていないのだ。

「あの……泊まらせていただくのは、どうしても無理ですか」
これまでの客は、こんなふうに家人の意向を尋ねることもせず、それが当然の権利と言わんばかりの態度で、氷河の家に勝手に入り込んできた。
この家の住人が 彼女たちのためにドアを開けてやったことは ただの一度もなかったというのに、である。
彼女等に比べれば、この少年は非常に礼儀正しく、訪問者としての分をわきまえている。
その上、彼は 見れば見るほど可愛らしく、驚くほど綺麗で素直そうな瞳の持ち主でもあった。

「空いている部屋はあるが、しかし、君の気に入るかどうかは――」
勝手に人の家を別荘にしてくれた人間に、氷河がついそんな甘いことを言ってしまったのは、やはり その小さな客人の、飼い主に見捨てられることを恐れている小犬のような眼差しのせいだったかもしれない。
『この子を突き放してしまう者は、優しい心を持たない人非人である』と、彼の瞳の奥に宿る神が氷河を責めていたのだ。
敬虔とは言い難いが、氷河は一応クリスチャンの端くれだった。

小さな訪問者――瞬――が、氷河の“甘い”言葉を聞いて、ほっと安堵したように短い吐息を洩らす。
「ありがとうございます!」
明るく元気な声で瞬に礼を言われた途端に、氷河は はっと我にかえった。
我にかえった氷河の中に、やはり ここは甘い顔を見せたりなどせず、見知らぬ訪問者を無理にでも追い返すべきだったかという思いが生まれてくる。
氷河がその思いを振り払うことになったのは、
「あの……ほんとは やっぱりご迷惑ですか……?」
という、遠慮がちな瞬の声のせいだった。
この少年は、多少甘い顔を見せても、それで図に乗るような人間ではないと、瞬のその小さな声で、氷河は確信したのである。

「いや、大丈夫。何とかなるだろう」
問題は、他人が母子の家に入り込むことを嫌う母ひとりだけ。
『部屋を片付ける時間をくれ』と言って瞬をドアの外に待たせ、氷河は母を説得するために家の中にとって返した。






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