「マーマ、あの子は追い出さないでくれ。頼む!」 玄関口から家の中に駆け戻ってくるなり、拝まんばかりの形相で母に懇願してきた息子に、氷河の母は驚きを禁じ得なかったのである。 彼女は、彼女の息子が母の幽霊ごっこを実はあまり快く思っていないことを知っていた。 そんな手の込んだいたずらをせずに、最初から家の中に入れなければいいのに――と思っていることを知っていたのである。 ふいの来客を てっきりクールに追い返してしまうだろうと思っていた息子が、アポイントメントもとっていない無礼な客にあっさり丸め込まれ、あまつさえ その客を家の中に迎え入れてくれと言い出したのだから、氷河の母の驚きは当然のことだったろう。 「まあ、氷河ったらどうしちゃったの。確かにとても可愛らしい子だけど」 その豹変をからかう口調で息子に探りを入れた母の前で、氷河が奇妙な沈黙を作る。 氷河の母には、それが図星を突かれた者が言葉に詰まって作り出した沈黙のように見えた。 氷河の母が、呆れたような口調になる。 「氷河ったら、まさか本当に、あの子が可愛いから そんなことを言い出したの? いやだ、氷河が面食いだったなんて、マーマ、ちっとも知らなかったわ」 「そんなんじゃない!」 母のからかいを、氷河がすぐに否定する。 そうしてから、氷河は、彼自身にも思いがけない言葉を口にしていた。 「そうじゃなくて――どこかで会ったことがあるような気がするんだ」 「会ったことがある……?」 氷河当人にも、それが、相手が可愛いから日頃の意見を変えたことを これ以上 母にからかわれないためについた咄嗟の嘘だったのか、あるいは本当に自分がそう感じているのか、よくわかっていなかった。 ただ、ここで瞬を追い返して二度と会えなくなることだけは避けたいという恐れにも似た願いが自分の中にあることだけは、彼にもわかっていた。 というより、『どこかで会ったことがあるような気がする』と言ってから、氷河は自分の中にある その思いに気付いたのである。 氷河自身、自分がなぜそんなふうに感じてしまうのかは わからなかったのだが、そんな息子を見詰めながら彼女自身も短い沈黙を作ることになった氷河の母が、やがて何かを合点したように ゆっくりと頷く。 「まあ、あの子は これまでの女の子たちとは違って、人の家に無断で図々しく入り込んできたりする無作法な子じゃないようだし? いいわよ。追い出さないであげる」 「夜中に変な音を出して、恐がらせるのもなしだぞ」 「はいはい」 「そんなことをしたら、俺はもう二度とマーマと口をきかない」 「あらあら、随分な ご執心だこと。でも、それなら なおさらよ。今までの女の子たちは、氷河が彼女たちを迷惑に思っているのがわかっていたから、マーマは頑張って追い払ってきたのよ。氷河が側にいてほしいと思っている人を追い出したりなんかしないわ」 そこまで言われて、氷河はやっと安心できたらしい。 「ありがとう、マーマ!」 氷河はその瞳から不信の色を消し、ぱっと明るい笑みを浮かべた。 小さな頃は、こういう時には母にしがみついて 喜びを表現してくれたものだが、最近はさすがに氷河も そういう素直な感情表現はしてくれなくなっていた。 (私の背なんてとっくの昔に追い越しちゃってるんですもの、当然よね) 息子の輝くような笑顔を見て、母親というものは いったい いつまで息子の“いちばん”でいられるものだろうかと、彼女は考えないわけにはいかなかったのである。 それは もしかしたら今日までなのではないだろうかと、可愛らしい客人を自分の側に留め置くために懸命になっている息子の姿を見て 予感する。 そして、それは、氷河の母にとっては、決して悪い予感ではなかった。 ――少し寂しいだけで。 母よりも友人や恋人や自分の夢の方が大切になる日――その日は、どんな子供の上にも いつか必ず訪れるものなのだ。 その予感が現実のものになるかどうか。 それはいずれわかること。 氷河の母は、今はその件について言及するのはやめることにした。 「でも、私たちの家を貸し別荘だと紹介してるなんて、いったい何の嫌がらせなのかしら。これまでの図々しい侵入者たちは氷河の噂を聞きつけた女の子たちがミーハー根性で押しかけてきたものとばかり思っていたんだけど、もしかしたら 借りた別荘を利用しているだけのつもりの人もいたのかもしれないわね。だとしたら、悪いことをしたわ」 これまでずっと嬉々として、図々しい客人たちを脅し退散させていた母が、いつになく しおらしい反省の態度を示すことが、氷河には意外に感じられたようだった。 繰り返される母のいたずらを必ずしも快く思っていなかったはずの氷河が、今日に限って、母の行為を全面的に支持してくる。 「役場の役人がそんなことを言っているんだとしたら、ここは別荘なんかじゃないと説明したところで あの女たちが大人しく帰ってくれていたかどうかはわからないだろう。今までのは あれが正しい対処方法だったんだ。だが、瞬だけは――」 「はいはい、わかりました。可愛い瞬チャンだけは特別。追い出したりなんかしませんってば」 珍しく母の意思より自分の願いを優先させる息子に わざとらしく肩をそびやかしてみせてから、氷河の母は大きく二度 息子に頷いてみせたのだった。 |