ともあれ、そういう経緯で、去年までとは違う氷河の夏が始まった。 押しかけてくる見知らぬ女性たちを撃退するだけで過ぎていった、去年までの夏。 無作法な女性たちを脅かして追い出す遊戯を母が楽しんでいるようだったから、氷河はその件について彼女に意見したことはなかったが、彼自身は決してそんな事態を心から楽しんでいたわけではなかった。 わざわざ一度 家への侵入を許した上で脅かし退散させるなどという面倒なことをするより、招かれざる客たちには できるだけ速やかにこの場から立ち去ってもらい、自分たちは可能な限り他人との関わりを持たないようにしたい――というのが、氷河の本音だったのである。 だが、今年、氷河の家にやってきたのは無作法で騒がしい女性たちではなく、礼儀正しく控えめな瞬。 冷静になって考えてみれば、これまで氷河の家に押しかけてきた女性たちと瞬は 特に何が違うというわけでもなく、氷河にとっては、どちらも同様に“関わりを持ちたくない他人”のはずだった。 にもかかわらず、瞬に対しては『関わりを持ちたくない』という思いが湧いてこない。 むしろ、もっと関わりを持ちたいという思いにかられる。 氷河が 毎日のように瞬を彼の家の周囲の色々な場所に連れていったのも、瞬にここを気に入ってほしいからだった。 幸い、氷河は、瞬を案内する場所に事欠くことはなかった。 氷河の家の周囲には美しい場所が多くあり、それらの場所の美しさは見る時刻によっても違う。 早朝の浜、昼の浜、夕暮れの浜、朝の丘、午後の丘、夕焼けの中の丘、しかもそれらの光景は天候によっても印象が異なり、それぞれに美しい。 氷河に案内される場所のどこででも、瞬はその光景の美しさを喜んでくれた。 瞬の喜ぶ様を見て、氷河自身も喜ぶことができた。 母と過ごすために自分が選んだ場所を、瞬も気に入ってくれることが、氷河は嬉しくてならなかったのである。 瞬は、これまで氷河の家に押しかけてきていた女性たちのように、氷河の家の周囲の美しい風景を携帯電話で写真にばかり撮ろうとはしなかった。 美しい風景を、瞬は自分の目で見た。 健気に咲いている花を摘みとることもしなかった。 瞬は、花の造形でなく 花が生きていることに――生きている花の美しさに――感動した。 瞬のそんな態度が、氷河には非常に好ましく感じられたのだが、それは彼の母も同様であるらしかった。 息子を溺愛し、母子の間に他人が割り込んでくることを何より嫌っていた氷河の母が、どういうわけか、母子の間に割り込んできた他人である瞬を、一向に追い出そうとはしない。 それどころか彼女は、瞬が氷河の家にやってきて日が経つと、 「氷河のお気に入りの瞬ちゃんは、いつまで ここにいてくれるのかしら。ずっとここにいてくれればいいのに」 とまで言い出したのである。 『瞬チャンは特別。追い出したりなんかしませんってば』という約束をとりつけてはいたが、浜に吹く風のように気まぐれな母は、いつ その約束を反故にするかわからない――と、内心でひやひやしていた氷河は、母のその言葉に大いに驚くことになった。 自分が好意を抱いている人に母もまた好意を抱いているということは、氷河には 至極当然のことのように思われたが、同時にまた、至極奇妙なことであるようにも思われた。 母は息子を独占したがっているのだと、氷河は思っていたから。 もちろん、母が瞬に好意を抱いてくれていることは、氷河には非常に喜ばしいことではあったのだが。 「僕、町で、役場の人に、氷河の家には幽霊屋敷だっていう噂があるって聞いてきたんです。だから、こんなに綺麗なところにあるのに、安く泊まれるんだって。で、その幽霊屋敷のオーナーさんは途轍もない美男子だから、ここは女の子に人気のスポットなんだって」 氷河の家での暮らしに慣れた頃、白く小さな花が咲いている丘で、瞬が笑いながら ふいに そんなことを言い出した時、氷河はひどく慌てることになった。 幽霊屋敷という噂は、決して外聞のいいものではない。 瞬がこれまで その噂に言及しなかったのは、その外聞の悪い噂を氷河の耳に入れることで、“幽霊屋敷”の住人の気分を害することがないようにと気遣ってのことだったろう。 そして、今になって瞬が その外聞の悪い噂を話題にのぼらせることになったのは、そんな噂を冗談として笑って語り合えると信じられるほどに、彼が“幽霊屋敷のオーナー”に気安さを覚えるようになってくれていたから。 氷河は、そのこと自体は嬉しかった。 そのこと自体は嬉しかったのだが、いったい役場の人間は何を考えて そんな噂を流しているのかと、彼は頭を抱えてしまいそうになったのである。 もしかすると、役場の人間は、そんな噂を流して、新たな町の観光名所でも作ろうと画策しているのだろうか。 だとしたら、それは迷惑千万なことだった。 ある秘密を守るために、近くに人家のない寂しい場所を選び、あえて他人との関わりを避ける暮らしを営んでいる氷河たち母子にとっては。 「瞬。実は、俺の母は――」 「え?」 「あ、いや……何でもない」 その秘密を瞬に知らせたら、瞬はいったいどうするのだろう。 それこそ恐れおののいて、母子の家から逃げていってしまうかもしれない。 氷河は、瞬にその秘密を打ち明ける勇気を持つことはできなかった。 |