その夜は、ペルセウス座流星群が極大になる夜だった。
氷河と瞬はポーチで一緒に流星の数を数え、楽しいひとときを過ごした。
二人がそれぞれの部屋に戻ったのは、流れ星を百以上数え終えてから。
文字通り 降るような星を見て瞳を輝かせ、『綺麗、綺麗』を繰り返していた瞬の方が 流れ星などよりずっと綺麗だったと、そんなことを考えながら氷河が眠りの中に沈んでいこうとしていた時。
突然、隣りの部屋から、
「わあっ」
という、瞬の声が聞こえてきたのである。

「瞬、どうしたっ! 」
慌ててベッドから撥ね起き、瞬の部屋に飛び込んだ氷河は、そこで、寝台の上に上体を起こし、呆然と虚空を見詰めている瞬の姿を見ることになった。
「瞬、どうしたんだ!」
「あ……今、髪の長い綺麗な女の人が僕の顔を覗き込んでた――と思ったんだけど……」
「なに……?」
瞬が、あまり自信がなさそうに、深夜の大声の理由を口にする。
何といっても寝入りばなのことだったので、瞬自身、自分が見た(と思った)ものに自信を持てずにいるのだろう。
瞬には、それを夢だったかもしれないと疑っているような様子があった。
だが、瞬が見たものが夢でも幻でもないことを、幽霊屋敷の住人である氷河は知っていたのである。

あれほど瞬だけは脅かさないでくれと頼んでおいたのに、あの気まぐれな人は何ということをしてくれたのかと、氷河は内心で母を恨みそうになっていた。
だが、今はそんなことよりも――『瞬に事実を告げるべきか否か』という問題の答えを出すことの方が優先されるべき時だった。

もちろん、今夜の出来事を瞬の見た夢にしてしまうことは可能だろう。
これが今夜だけのことであれば。
しかし、あの気まぐれな人が、二度三度と瞬を驚かせ続けたらどうなるか。
たとえそれを夢と信じさせることができたとしても、同じ夢が続くことを、瞬は不審に思うことになるだろう。
不審に思うだけで済めばまだいいが、その夢に怯えた瞬がこの家を出ていくと言い出したなら――。
氷河はそんな事態だけは避けたかったのである。
氷河は、一分一秒でも長く、瞬と同じ場所で同じ時を過ごしていたかった。

「は……母がいたずら好きで――」
とりあえず、事実(の一部)を、瞬に告げてみる。
瞬は、それですぐに合点してくれたようだった。
「ああ。それで幽霊と誤解されて、あんな噂が立つことになってしまったんですね。でも、できることなら、僕、氷河のお母様には 明るいところでお会いしたいな。さっきは本当にびっくりしたから」
「……」

瞬の望みは至極尤も。
なにしろ、瞬がこの家にやってきて既に半月が経つというのに、氷河の母は、まだ一度も その姿を瞬に見せていなかったのだ。
瞬が、同じ家で暮らしている人間の姿を見れずにいることを、不安もしくは奇異に思っても、それは当然のことだったろう。

瞬は、氷河の説明に一片の疑念も抱いていないようだった。
この家には もう一人の住人がいて、その住人は少々いたずら好き――という氷河の言葉を、瞬は素直に信じている。
もし瞬が氷河の説明を少しでも疑う素振りを見せていたら、氷河はその嘘を貫き通そうとしていたかもしれなかった。
だが、瞬があまりに素直に――あまりに無邪気に――その嘘を信じるので、氷河は逆に瞬に真実を告げないわけにはいかなくなってしまったのである。
それで瞬が驚き怯え、この家を去っていってしまっても、『瞬に嘘をつかずに済んだ』という思いが、瞬のいない日々の寂しさを埋めてくれるだろうと、氷河は思った。

「瞬……驚かないで聞いてくれ。実は、俺の母は本当に幽霊なんだ。母は、俺が小さい頃、船の事故で死んでしまった。俺の命を救うために、自分の命を犠牲にして。だが、母は、幼い俺をひとり この世に残していくことが心配だったんだろう。死んだあとも この世界に留まり、ずっと俺を見守り続けていてくれたんだ」
「え……」
“事実”を知らされた瞬が、瞳を大きく見開く。
その様を見て、氷河は、瞬がその“事実”を『面白い冗談だ』と言って笑ってくれればいいと思ったのである。
そうしたら、自分は、事実を冗談にするために、これまで通り、これまで以上に、どんなことでもするだろう――と。
それとも、やはり、瞬は怯え恐がって この幽霊屋敷から逃げていってしまうのだろうか――?

運命の裁定を待つ 哀れな罪人にも似た気持ちで、氷河は瞬の答えを待った。
瞬は笑い出すのか、それとも幽霊の同居人に恐怖と嫌悪の目を向けてくるのか。
氷河はそれこそ、死刑と無期懲役のいずれかの判決を待つ被告人の心境で 瞬の答えを待っていたのである。
だというのに、瞬は、そのどちらの判決も口にしなかった。
瞬は、笑いもしなければ、怯えもしなかった。
瞬は、氷河の心配顔を見上げ、
「優しいお母さんなんですね」
と、微笑んで(!)しみじみした声音で言ったのである。
「氷河の身を案じて、亡くなったあともずっと氷河の側にいてくれたなんて……」
「あ……」

その通りである。
その通りではあるのだが、幽霊の話を聞かされて 怯えもしなければ笑いもしない瞬に、氷河は尋常でない驚きを感じることになったのである。
「こ……恐くないのか? 母は幽霊なんだぞ。この家は、本当に幽霊屋敷なんだ」
想定外の事態に戸惑い、どもりながら念を押した氷河に、瞬が不思議そうに首をかしげてくる。
「恐い……って、どうして? だって、氷河を思うあまりのことなんでしょう? 氷河が恐がっていない人なら、僕だって恐がる必要はないと思うし、それに本当に綺麗な人だったから」
「瞬……」

やはり瞬は特別な人なのだと、その時 氷河は思ったのである。
氷河の大切な人を――彼女の いたずら好きにも責任はあったのだが――ただただ恐れて逃げ出していった これまでの“客”たちと瞬は、全く違う。何もかもが違う。
氷河は思わず瞬を抱きしめてしまいそうになったのである。
残念ながら、氷河にはそうすることはできなかったが。
氷河のそんな感動の発露を邪魔する者が、突然その場に現われたせいで。
氷河のそんな感動の発露を邪魔する者――それはもちろん、この家のもう一人の住人――氷河の大切な母親――だった。

「まあ、瞬ちゃんは、可愛らしいだけでなく、とても正直」
どこからともなく湧いて出た氷河の母は、瞬の肩にのびかけている息子の右手を一瞥し(=釘を刺し)、にこやかに笑って、瞬に自己紹介をした。
「氷河の母です。よろしくね」
その長い金髪の持ち主を、瞬はぽかんと見上げることになったのである。

「どうかして?」
「あ……いえ、あの……氷河のお母さんは 本当に幽霊なんですか?」
「ええ。さっきは驚かせてごめんなさいね。氷河があんまり瞬ちゃんにご執心だから、どうしても その可愛らしい顔を近くで見てみたくなったのよ」
「マーマ!」
『瞬だけは脅かさない』という約束を反故にされたこと。
息子の純粋な感動の発露を邪魔してくれたこと。
母に言いたいことは山ほどあったのだが、それよりも。
今はとにかく、彼女には息子の恋路に首を突っ込んでほしくない。
氷河は我知らず頬を上気させて、余計なことを瞬に知らせてくれた母を怒鳴りつけた。

氷河の怒声の意味に全く気付いていない様子で、瞬が、氷河の母の謝罪に首を横に振る。
「いいえ。月明かりだけで見た時も 綺麗な人だと思ったんですけど、明るいところで見ると、一段と お綺麗です。氷河の髪や瞳の色はお母様譲りなんですね」
「そうなの。私の自慢の息子なの」
「ええ。わかります。氷河は綺麗なだけじゃなく、とても優しいもの」

自分の美貌への賞讃より、息子の価値を認めてもらえたことの方が、彼女は嬉しかったらしい。
息子にしか見せたことのない優しく温かい微笑を作って、彼女は瞬に告げた。
「私のことはマーマって呼んでちょうだい。あなたくらい可愛い子だったら、ほんとにマーマになってしまいたいくらいだわ。氷河だけでなく、私も大歓迎よ」
「ありがとうございます。マーマ」

全く戸惑った様子を見せず、瞬が、幽霊からの要望に従う。
いささかの逡巡もなく 幽霊を『マーマ』と呼ぶ瞬と、瞬に『マーマ』と呼ばれて満悦のていの母。
瞬との永遠の別離も覚悟して挑んだ難事業が、まさか こんなにもあっけなく解決収拾してしまうことになろうとは。
この事態は、氷河には ほとんど想定外のことだった。
もちろん、この結末は、氷河を大いに安堵させてくれたのではあるけれども。

母に向けられた瞬のやわらかな微笑。
それが、照明の加減なのか何なのか、どこか寂しげに見える。
そんなはずはないと思い直そうとしたのだが、氷河が一度 抱いてしまった印象は、彼の中で変わることはなかった。
幽霊である人を恐れる色もなく綺麗な笑顔を向けている瞬の瞳は、確かに何かを悲しんでいた。

そういえば、瞬はどう見てもまだ未成年である。
そんな子供の瞬が、いったいなぜ、どうして、たった一人でこんなところにやってきたのだろう。
それは、息子の身を案じる母親の幽霊が現世に留まっていることよりも、(氷河にとっては)不思議なことだった。
だが、そんなことを へたに問い詰めて、瞬に帰られてしまっても困る・・――。

そう考えてから、氷河はこの家に待つ未来――に気付いてしまったのである。
すなわち、瞬はいつかはこの家から 瞬自身の家に帰ってしまうのだということに。
『この夏いっぱい』と、瞬は言っていた。
秋になれば、瞬はもうここにはいないのだ。
それだけでも寂しいだろうと思うのに、まして瞬のいない冬を自分は耐えることができるのか。

氷河の中に そんな不安や疑念が生まれてくるのは、別の視点で見れば、そんなことを考えずにはいられないほど、瞬と共にいる今が氷河にとって幸福な時間だから――ということでもあったろう。
瞬と一緒にいられるのは この夏の間だけなのだと思うと、瞬と共にいられる“今”という時間が どれほど大切で、どれほど価値のあるものなのかがわかる。
自分の胸の内にある幸福と不安。
それは、『人間に与えられている命には限りがある』という事実を、氷河に思い起こさせた。






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