氷河と氷河の母が暮らす家のある土地の夏は、瞬が知っている どんな夏とも違うものだった。 瞬が生まれ育った国の蒸し暑さも、瞬が6年の時を過ごした絶海の孤島の厳しい暑さも、ここにはない。 太陽は確かに夏の太陽の軌道上にあるのだが、その光が地上に届く頃には、その陽射しは ひどく優しい感触のものに変わってしまっている。 氷河の家とその周辺に溢れている陽光は、夏の太陽の眩しさと春の太陽の優しさが混じり合ってできているもののように、瞬には思われた。 今 瞬の周囲で咲いている花も、春の花と夏の花、平地に咲く花と高原に咲く花が混在している。 その花の中に 白いワンピースを着た女性が立っていることに気付いた瞬は、彼女に笑いかけようとした。 氷河を愛し、氷河に愛されている、明るく美しい人。 生きていないと知らされても、瞬の中には彼女を恐れる気持ちは全く湧いてこない。 この人がいるから 氷河は不幸にならずに済んだのだと思えば、瞬の中に生まれてくるのは、彼女への感謝の思いだけだった。 彼女は、昨夜の彼女とは違っていた。 明るい陽光と花の中にいるというのに、彼女の瞳には昨夜の陽気さはない。 作りかけていた笑顔を、瞬は真顔に戻した。 「瞬さん」 あまり抑揚のない声で名を呼ばれ、瞬は慌てて その場に立ち上がろうとしたのである。 彼女の手が、それを制した。 「私は、氷河があなたを愛していたことを知っているし、あなたが氷河を愛してくれていたことも知っています」 「あ……」 彼女が かつての自分たちを知っていることに、さほどの驚きはなかった。 彼女が その命が失われてからもずっと愛する息子を見守り続けていたというのなら、彼女は それを知っていて当然なのだ。 瞬が彼女の前で顔を伏せたのは、瞬が氷河を愛し愛されていた頃の記憶が、ふいに切なく蘇ってきたからだった。 「でも、私も氷河を愛している。私は、どうしても氷河と暮らしたかったの。だから、氷河から、あの子が聖闘士だった頃の記憶を奪い、あなたを忘れさせた。ごめんなさい」 「あなたの大切な氷河だもの。お気持ちはわかります……」 「……」 彼女はもしかしたら、息子から記憶を奪った母親は、息子のかつての恋人に責められて当然――と考えていたのかもしれない。 だが、それをせずに、ただ肩を震わせて俯いてしまった瞬に、彼女は言うべき言葉を見失ってしまった――のかもしれなかった。 「瞬ー!」 丘の麓から駆け上がってきた氷河に名を呼ばれて、瞬が顔をあげた時、氷河の母の姿は既にそこにはなかった。 「今、マーマがいたか?」 氷河の声音と眼差しが、何事かを探ろうとする人間のそれに変化する。 氷河は、彼の陽気な母親がまた 悪気なく余計なお喋りをしたのではないかと懸念しているのだろう。瞬は、そんな氷河に微笑を返した。 「うん。氷河の自慢を聞かされたの。マーマは氷河をとても愛してるって言ってたよ」 「……それだけか? 本当に? あの人はまた何か余計なことを――」 母に溺愛されている息子は、今日は ひどく疑り深い。 「余計なことって?」 瞬は、からかうように氷河に反問した。 照れて横を向くのだろうと思っていた氷河が――実際、彼はそうすることを考えたようではあったが――思い直したように、瞬を正面から見詰めてくる。 「瞬、俺は――」 懐かしい青い瞳――。 氷河から視線を逸らすことになったのは、瞬の方だった。 「ここ、本当に綺麗なとこだね。夏だけなんていわず、ずっといたい」 「冬の寒さは厳しい。それでもよかったら、ずっと――」 そんな瞬を、氷河の声が追いかけてくる。 その声が聞こえなかった振りをすることもならず――瞬は、もう一度 氷河の青い瞳を見上げることになった。 「瞬には……瞬には、他に帰る場所があるのか。いつか帰ってしまうのか。待っている人がいるのか」 いつかどこかで見たことのある、真剣で切なげな眼差し。 その空色の瞳の中に、“恋人に忘れられた哀れな恋人”の姿が映っている。 瞬は、氷河に問われたことには答えずに、彼の胸に自身の身体を寄り添わせた。 そして、氷河の胸の中で小さく呟く。 「僕は、氷河とずっと一緒にいたいよ……」 「瞬……」 氷河の腕が瞬の肩を抱き寄せ、抱きしめ、氷河の唇が瞬の唇に触れてくる。 それも、瞬には、かつて幾度も触れたことのある温かさと感触だった。 |