周囲にはいくらでも色鮮やかな花が咲き乱れているというのに、氷河の目は もう、白く可憐で清らかな小さな花しか見ていない――見えない。
息子がそういう目の持ち主になるのを見るのは、氷河の母は これが二度目だった。
「こうなることはわかっていたわ。あなたが最初にこの家に来た時から。でも、あなたが氷河を連れ帰ることはできないの。それは無理なのよ。あの子はもう聖闘士じゃないから」

その夜、彼女は、彼女にしては静かにひっそりと 瞬の部屋にやってきた。
息子の幸福だけを願う母親に切なげに訴えられた瞬は、彼女のために懸命に笑顔を作ろうとしたのである。
「わかってます。いいんです。氷河が僕のことを忘れてしまっても、僕は氷河のことを憶えているから」
懸命に笑おうとしたのに、瞬の涙は瞬の意思を裏切った。

「氷河は忘れているの……何もかも。氷河は、今でも自分は生きて・・・いる・・と思い込んでいるのよ」
瞬が忘れてしまいたかった その事実を、氷河の母が告げてくる。
瞬は涙を隠すために、顔を俯かせた。

氷河の死は瞬には大きな衝撃で、幸福だった それまでの瞬の人生を全く違うものに変えてしまった出来事だった。
自分ほど氷河の死で大きな打撃を被り 打ちのめされた人間はいないと、これまで瞬は思い込んでいたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。
部屋の外では今夜も時折 星が流れて消えている。
流星の数は昨夜よりずっと少なく、それはまるで愛する人を失った者たちの涙のように見えた。

「氷河が戦いで命を落とした時、私は悲しむより怒りの方が先に立ったの。私は、あの子を あんなに若いうちに死なせてしまうために、自分の命を投げ出したんじゃない。あの子に生きて幸せになってほしかったから、私は私の命を神に返したのよ! なのに、あんなこと……あんなことって! 私は、どうしても氷河の死を認められなかった」
「だから、氷河から死の記憶を消してしまったんですか?」
悲運の母が項垂れるように頷き、そうしてから、首を横に振った。

「それに……氷河があんまり嘆くから……。あなたを残して死んでしまったことを、あの子があんまり悲しむから……。氷河は自分の死は受け入れることができていたわ。聖闘士だったんですもの、その覚悟はできていたんでしょう。でも、そのせいであなたを一人にすることには耐えられないと、氷河の心は叫んでいた。生き残ってしまったあなたが、自分の死を悲しんでいるのを見て――生きていたかった、瞬の側に戻りたい、瞬が泣いている、瞬の側に戻りたいって、そればかり。氷河はあなたの何倍も、あなたの嘆きを嘆いたわ。もう一度死ぬことができるのなら、その嘆きのために死んでしまっていただろうと思えるほどに。私は……見ていられなかったの。だから、氷河の記憶を消し去って、そして、氷河に聖闘士だったことを忘れさせた――あなたを忘れさせた」
それが 良いことでも正しいことでもなかったと、彼女は思っている――わかっている――のだろう。
瞬にその事実を告白する母の声は震えていた。

確かに それは、良いことでも正しいことでもなかっただろう。
だが、息子を愛する母として、自然なことではあったのだと、瞬は思っていた――思うことができていた。
「マーマの気持ちはわかります。氷河はきっと 僕よりつらかったんですよね。そんな氷河を見ることになったら、僕だってきっとマーマと同じことをした」
「ごめんなさい。私は、氷河に苦しんでほしくなかったの。だから、氷河のために、氷河からあなたの記憶を奪った。ごめんなさい。氷河は……あなたを忘れて、あの子は自分の死すら憶えていないの……」

花のような風情に反して強い人だと思っていた女性の嘆きを目の当たりにして、瞬は胸が詰まるような切なさに囚われたのである。
彼女は、決して強い人間ではない。
かといって、心弱い人間でもない。
彼女はただ、人を愛する人なのだと、思う。

「そんなに泣かないでください。いつかきっと、すべてがよくなりますよ」
「でも、私のせいで……」
「マーマのせいで?」
彼女のせいで、何かよくないことが起こっただろうか。
瞬は、氷河の母に首を横に振ってみせた。
よくないことなど、何ひとつ起こっていない。

「そんなこと ありません。僕は氷河が好きだし、氷河が僕を忘れても、その気持ちは変わらない。それに――」
瞬が、しばし言葉をためらう。
僅かに瞼を伏せて、瞬は言葉を継いだ。
「あの……うぬぼれかもしれないけど、氷河はもう一度僕を好きになってくれる――好きになりかけてくれているような気がするんです」
「それはそうよ。あなたは、氷河にとって誰よりも大切な人だったのだもの」

息子を愛してやまない母親は、再び 息子の心の一部を占めつつある人間に悪い感情を抱いてはいないらしい。
瞬はほっと安堵して、今度こそやっと、笑顔を作ることができた。
「なら、やっぱり、きっといつか すべてがよくなりますよ」
「瞬さん……」

今なら、笑って言える。
そう感じた瞬は、実際に微笑しながら、氷河の母に彼の苦しかった日々を告白したのである。
「氷河が死んで、僕は苦しんだ。でも、僕は聖闘士だったから、戦い続けなきゃならなかった。死ぬわけにはいかなかった。死ねなくて……氷河が側にいてくれないのに、一人で何年も何年も――戦いが続いた。戦いは終わらなかった」
「あなたが氷河の死に苦しみながら戦いを続けている間、氷河はあなたのことを忘れていた。あなただけが――何年も苦しんだのね。私のせいで」

「マーマのせいじゃありません。『生き残る』って、そういういうことでしょう。それが生き残った者の務めなんです」
その務めを、自分は果たし終えた。
だから、今 自分は笑うこともできているのだろうと、瞬は思ったのである。
「ふふ。でも、幽霊って便利ですね。僕は本当はもう氷河より10歳も年上になってしまっているのに、こうして 氷河が死んだ時の姿で氷河に会いにこれた」






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