人間の尊厳とプライドを放棄したような氷河の妬心は、城戸邸に帰ってからもなお持続した。
つまり、瞬は、帰宅してからもずっと、恋する心をたぎらせている氷河よりも、心を持たない写真集の方に 情熱的な眼差しを注ぎ続けるということをしてくれたのである。
瞬にすっかり存在を忘れられてしまったていの氷河は、『そんなに花を見たいのなら、鏡を見ていればいいのに』と瞬に嫌味を言いそうになってしまったのだった。
もちろん、氷河が瞬に嫌味を言うことなどできるはずはない。
恋は勝ち負けのあることではないから、氷河も『惚れた方の負け』などというありふれたフレーズを持ち出すつもりは さらさらなかったが、より深く恋している方が、より大きな不安や不満を抱くことになるのが恋人同士という関係なのだ。

どうせ花を見るなら、紙に映しとられた虚像ではなく瞬を見ていた方がいいという考えの氷河が、 瞬がその写真集の特定のページだけを見ていることに気付いたのは、帰宅後 かなり時間が経ってから。
瞬の目は、100ページはある写真集の特定の1ページと表紙だけを行ったり来たりしていた。
つまり、瞬の情熱的な眼差しは、表紙と表紙で使われている花の写真の載ったページにのみ注がれていたのだ。
その事実に気付いて初めて、氷河は、瞬が購入した写真集の内容に関心を抱くことになったのである。

「その白い花も絶滅種なのか」
妬心を隠して、氷河はさりげなく瞬に探りを入れてみた。
「そうみたい。日本ではもう5年以上 見付かっていないそうだから……。シベリアやヒマラヤにならまだあるらしいけど。この写真も日本で撮ったものじゃないんだって」
膝の上に置かれた写真集に落とした視線をあげることなく、瞬が答えてくる。
「その花に、何か思い入れでもあるのか」
「あ……ううん、別に……」
「――」

瞬が言葉を濁したのは、瞬の情熱的な眼差しの原因が 屈託なく人に語れるようなものではないからなのだろう――と、氷河は察した。
それが明るく楽しい“何か”であったなら、瞬はそれをなるべく多くの人間と分かち合おうとするはずなのだ。
すなわち、瞬がその花に向ける眼差しは、明るく楽しい心から生まれたものではないということである。
そして、瞬に関することならどんなことでも――聞いて楽しめるような事柄でなくても――知りたいという氷河の思いは、恋する男としては ごく一般的なことだったろう。

とはいえ、それは、瞬にとっては、好んで人に語りたくないことなのかもしれない。
だとしたら、それを無理に瞬から聞き出すことはできない。
だから、氷河は、それ以上は何も言わず、無言でじっと瞬を見詰めることになったのである。
『話してもいいと思うなら話してほしい』と言葉にはせず、視線で瞬に訴えて。

瞬が彼の情熱的な眼差しの理由を氷河に話す気になったのは、氷河が瞬から無理にそれを聞き出そうとしなかったからに違いない。
それを氷河の思い遣りだと感じたからこそ逆に、瞬は氷河の知りたいことを氷河に知らせる気になったのだ。
瞬は、好意には好意を返したいと考える人間だったから。

「……あのね、僕の母さんって、野草の写真を撮るのが趣味だったんだって。もちろん、今みたいに携帯電話やデジタルカメラもない頃だから、写真屋さんに現像を頼まなきゃならないようなカメラで撮ってたらしいんだけど。両親が亡くなってから そのカメラもアルバムやネガもどこかにいっちゃって、でも、この花を撮った写真が一枚だけ残ってたんだ。『これは何?』って、兄さんに聞いたら、教えてくれたの。『おまえの母さんが撮った写真だよ』って。僕の母さんは、大抵は、そこいらへんの山とか野原に咲いてる野草を撮ってたらしいけど、でも、一度だけ北海道に遠征したことがあって――」
「遠征?」

また随分と大仰な単語が出てきたものである。
瞬が口にしたその言葉を氷河が反復してみせると、瞬は初めて その目許に ほのかな微笑を浮かべた。
「うん。それで、その時、偶然、その頃すでに絶滅危惧種になっていた この花を見付けて、写真に撮ることができて――母さんはその写真をすごく大事にしてたんだって」
「おまえの母の思い出の花というわけか」
「そうだね……。僕、母さんの顔を憶えてないから、お母さんのイメージっていうと、この花が思い浮かぶんだ」
「そうか……」

瞬は、氷河が母親を失った時より もっと以前――まだ赤ん坊の頃に両親を亡くしている。
当然、瞬自身が直接に記憶している母の思い出というものはないのだろう。
それは母を亡くした子にとって不幸なことなのか、あるいは幸運なことなのか――。
思い出がない分、母への思慕の念は募るものなのか、それとも、思いを馳せる材料も与えられていないと、諦めがつくものなのか。
瞬に比べれば幾十倍幾百倍の母の思い出を持つ氷河は、はたして瞬は そのどちらだったのだろうと考えることになったのである。
すぐに、それは改めて考えるようなことではないと、彼は思い直したのだが。

瞬には兄がいた。
母が恋しいと言えば、それは兄を困らせることになる。
当然、瞬にはそんなことは言えなかっただろう。
だが、だからといって、母に向かう瞬の思慕が軽く薄いものだったはずはない。
瞬が、母に通じるたった一枚の写真を大切な思い出としていたからこそ、同じ花の写真が表紙に使われているという ただそれだけの理由で、この写真集は瞬の目と心を捉えたのだ。
母への思慕を表に出せない分、母に向かう瞬の思いは、瞬の心の奥底に密やかに募ることになったのだろう。
『マーマ、マーマ』と大騒ぎする どこぞの青銅聖闘士などより、瞬の母への思慕は深いものなのかもしれないと、氷河は思った。

瞬にマザコンと思われるのは得策ではないという考えがあったので、氷河はことさら瞬の前で『マーママーマ』と騒いだことはないつもりだったが、それは決して皆無だったわけではない。
青銅聖闘士の中で自分だけが母親の思い出に恵まれているという事実を意識することなく、話題が『母』というものに及べば、氷河は普通に仲間たちの前で彼の母について語ることをしてきた。
それが、母の思い出を持たない瞬や星矢たちに どんな思いを抱かせる行為であるのかということに思い至りもせず。
母を失った男が語る母の話を、母を持たない瞬たちは、これまでどんな気持ちで聞いていたのか――。
もちろん、彼等は、母の思い出に恵まれた男を羨みはしても、妬んだりはしなかっただろう。
それがわかるからこそ、氷河は、軽率な男が語る母の話を いつも微笑んで聞いてくれていた瞬の気持ちが切なく感じられ、同時に、自分の心ない振舞いを恥ずかしく思うことになったのである。

が、まさか ここで瞬に 自分の軽率を謝るわけにはいかない。
そんな行為は、瞬の心を更に傷付けるだけのものだろう。
氷河は、『すまん』と言う代わりに、瞬の膝の上にある写真集を覗き込み、
「可愛い花だな」
と言った。
「ありがとう!」
瞬が嬉しそうな笑顔を作る。
その笑顔が、氷河の目には あまりに可愛らしく、あまりに健気なものに映った。
氷河の中に生まれた切なさと申し訳なさは、更に大きなものになることになったのである。

「その花……シベリアにはまだ残っているのか?」
「かもしれないって。すごくデリケートで繁殖力の弱い花みたい。珍しいし綺麗だし、心ない人が摘んじゃったんだろうね。日本では、多分 もう見ることはできない――」
寂しげな声で そう言ってから、瞬は、
「生きてる花を見てみたいな……」
と、溜め息のように小さな声で呟いた。

瞬は、何気なく呟いただけだったのだろう。
それは、その願いが叶うはずがないと信じているからこそ、言葉にしてしまえた呟きだったのかもしれない。
叶うはずのない願い――。
氷河には、瞬のその呟きが、
『生きてる母さんに会いたいな』
と言っているように聞こえたのである。

「本物が見たいか」
「そうできたら嬉しいけど、ごく限られたところにしか咲いてない花みたいだから……。この写真家さんもかなり苦労して探したみたいだよ」
瞬が、帰宅してからずっと氷河を無視して熱い視線を注いでいた写真の脇を、彼に指し示す。
そこには 細かな文字で撮影時のエピソードが記されていて、中に『出合えたことが奇跡』という一文があった。

「……」
瞬が僅かに顔を俯かせたのは、その写真を見るためではなかっただろう。
瞬は、それを“無理なこと”と諦めているのだ。
瞬は アテナの聖闘士――少しでも可能性のあることなら決して諦めず、その努力と熱意で奇跡をすら引き起こすアテナの聖闘士――だというのに。
そんなささやかな願いすら、瞬は――おそらくは遠慮から――諦めてしまっているのだ。

だが、だからこそ瞬の願いを叶えてやらなければならない――と、氷河は思ったのである。
これまで一度として 瞬の心を思い遣ることなく、心ない振舞いを続けてきたことへの謝罪として。
それより何より、瞬を 生きている その花に出合わせてやり、瞬に心からの笑顔を浮かべさせてやるために。






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