突然 一人でロシアに行ってしまったと思っていたら、帰ってくるなり、『シベリアに行こう』と言い出した氷河に、瞬は瞳を見開くことになった。 「シベリアのあの花の写真を撮った場所に入る許可をもらってきたんだ。今の時季を逃すと、来年の花の季節を待つことになるから、できるだけ早く日本を発とう」 「氷河……あの……」 「沙織さんに手配してもらったんだ。俺の我儘と強引には呆れていたが、おまえのためだといったら、沙織さんも――まあ、おまえを思う俺の心に感動したんだろう。あちこちに手をまわしてくれた」 「……」 瞬は最初、氷河が何を言っているのかが よくわからなかったのである。 瞬にとって、“諦めなければならないこと”は“忘れなければならないこと”だったから。 無理に意識の内から消し去っていたことを思い出し、氷河が突然シベリア行きを言い出した理由に思い至るや、瞬の胸には熱いものがこみあげてきた。 心が涙腺に直結している瞬の瞳が、すぐに潤み始める。 「あ……ありがとう、氷河!」 「礼などいらん。俺は何もしていないし。どっちにしても、礼はあの花が見付かってからにしてくれ。あの花が必ず見付かるとは限らないし――俺はおまえに ぬか喜びをさせるだけで終わってしまうかもしれん」 「ううん。氷河が僕のためにわざわざ……。母さんの花を 氷河と一緒に探しに行けるだけで、僕、嬉しいよ!」 瞬が喜んでくれるなら、氷河は――氷河ももちろん嬉しかった。 実際、氷河は、『瞬に喜んでもらいたい』という、その一念だけで、すべてのお膳立てを整えたのだから。 何はともあれ、フットワークが軽いのがアテナの聖闘士の特技の一つ。 そういう経緯で、二人は2日後にシベリアに向かうことになったのである。 氷河と瞬がシベリアに向かうことを決めた、その日の夜。 瞬は、仲間たちのいるラウンジの彼の定位置に座ったまま、なかなか その腰をあげようとはしなかった。 城戸邸に起居する青銅聖闘士たちの中ではいちばんの早寝早起き人間で、いつもなら11時には自室に入ってしまう瞬が、12時近くなっても一向に席を立つ気配を見せないことに、星矢たちは奇異の念を抱いていたのである。 瞬が なぜか平生より重い腰をあげたのは、今日が明日になり、氷河が掛けていた肘掛け椅子から立ち上がった時だった。 「ぼ……僕も行く!」 瞬がそわそわした口調でそう言い、氷河のあとを追おうとする。 その意外な展開に驚いたのは、氷河だけではなかった。 「瞬。おまえ、カレンダー、見間違えてないか?」 「いいのか。一週間前にしたばかりだぞ」 星矢と紫龍に確認を入れられて、瞬はその頬を真っ赤に染めることになったのである。 “一週間前にしたばかりのこと”というのは、つまり、夫婦もしくは恋人同士が互いの愛情と親密さを確かめ合うために行なう あの行為のことで、星矢たちが瞬にそんなことを尋ねることができるという事実は、彼等が氷河と瞬のその行為の周期を把握している――ということを意味するのだ。 氷河と瞬のその行為は、通常2週間に1回がアベレージになっていた。 仮にもアテナの聖闘士が体力不足ということもないだろうに、回数にすると、その分野では世界一の劣弱を誇る日本人平均の2分の1、世界一 精力的なギリシャ平均に比較すると、なんと6分の1という淡白さ。 「若さも体力もある二人がなぜ」 と問い質した際、星矢は、 「それが嫌いなわけじゃないらしいんだが、恥ずかしくて嫌なんだそうだ。1回イタす覚悟を決めるのに、瞬は10日以上の時間が必要らしい」 という事情説明を、氷河に(さすがの星矢も、瞬には訊けなかった)受けていたのだ。 「『好き』が『恥ずかしい』に負けてるわけかあ」 と、星矢は常々 氷河をからかって(さすがの星矢も、瞬をからかうことはできなかった)いたのである。 「俺は、ご褒美が欲しくて、この計画を立てたんじゃないから無理するな」 それは決して見えでも意地でもなく、氷河の本音だった。 その件に関しては、氷河はほとんど悟りの境地に至っていた。 瞬が嫌だというものを、無理強いはできない。 「そ……そういうつもりじゃなくて……。あの、ほら、花を探す計画を話しながら眠るのも素敵かなあ――って」 「……」 「あの、もちろん、お話するだけでなくてもいいんだけど……」 「……」 「だって、僕、氷河が僕のあんな他愛のないお喋りを憶えてて、気にかけてくれて、骨を折ってくれたのが嬉しいんだもの……」 「……」 氷河がいつまでも無言でいるので、瞬はいたたまれなくなってしまったらしい。 瞬は、真っ赤に染まった頬を隠すように項垂れてしまった。 「い……嫌ならいいんだけど……」 氷河はもちろん『嫌』なわけではなかった。 彼はただ想定外の展開に驚いていただけだった。 瞬が義理を感じて いやいやながらにそんなことを言い出したのでなかったら、降って湧いたようなこの幸運を、あえて拒むつもりもない。 「俺は、どんな他愛のないお喋りでも、それがおまえの言ったことなら絶対に忘れないし、いつもおまえのことばかり考えているが」 氷河がそう言って瞬に手を差しのべると、瞬は、星矢たちの好奇の目から逃れるように、その手に飛びついてきた。 |