「わあ、春……!」
純白のシベリアをしか見たことがなかった瞬は、緑の絨毯を敷きつめたような その光景に歓声をあげた。
もちろん そこにあったものは春ではなく、これがシベリアの夏なのだと、瞬はすぐに思い直すことになったのだが。

氷河と瞬がコホーテク村に着いたのは、シベリアの短い夏が終わりかけた ある日の夕刻で、氷河はそこから 彼が修行をしていた頃に使っていた家に向かうつもりだったらしいのだが、ヤコフの祖父に引きとめられ、結局二人はそのまま村に留まることになったのである。

例の白い花が咲いているかもしれないという丘は、コホーテク村から2キロほどのところにあり、視界を遮るようなビルも山もないシベリアの平原では、その全貌を村のどこからでも眺めることができた。
『丘』と表するには少々高さがありすぎるような気もしたし、滅多に人の入らない場所というだけあって雑木がかなり多いように見える。
瞬は、その丘に、『丘というより小さな山のようだ』という印象を抱いたのである。

「東京はひどく蒸し暑い町だそうじゃないか。氷河がよくそんなところで生きていられるもんだな」
久方振りに会う若い友人を笑顔で迎えてくれたヤコフの祖父の顔が曇ったのは、彼の若い友人の連れから、今回の彼の帰国の目的が避暑ではないということを聞かされた時だった。
「あの山に入る? 本当か?」
「ええ」
『丘』を『山』と言って、老人は驚いたように瞬に尋ねてきた。
氷河がヤコフと共に家の外にいることを確かめてから、声を潜めて、瞬に確認を入れてくる。

「あの山は、以前政府の要人だった男の――個人の所有になってて 政府の偉い人もなかなか入れない場所のはずなんだが……」
「そうなんだそうですね。でも、許可をもらえたんです」
「氷河が頼んだのか……? まさか、そんなはずは――」
「そんなはずは……って、どういうことですか? 氷河が許可を得てくれたんですけど」
氷河は沙織に手配してもらったと言っていたが、沙織に働きかけてくれたのは氷河である。
瞬が尋ね返すと、老人は僅かに――だが、実に奇妙に――その顔を歪めた。
その様子に、瞬は、何か引っかかるものを感じてしまったのである。
引っかかりというより、それは“不安”と言っていいものだったかもしれない。
老人が瞬に見せた表情は、それほど奇妙な――疑念と苦渋をたたえたものだったのだ。

「あの山に何かあるんですか」
「山には何もないが、山の所有者というのが わけありの男で――」
「わけあり?」
老人は、それを瞬に告げていいものかどうかを迷っているようだった。
迷った末に 彼がそれを瞬に告げることにしたのは、その事実を氷河の友人に知らせることで、氷河の友人に氷河を気遣ってほしいと思ったから。
あるいは、その事実を知らないことで、氷河の友人に 氷河を傷付けるようなことをしてほしくないと考えたからだったらしい。
彼は、それでなくても潜めていた声を、更に低く小さなものにした。

「あのへん一帯の土地の所有者はレフ・イリイッチ・スヴォルキンという男で……つまり、スヴォルキンというのは、氷河の実父なんだ」
「え……」
「大変な資産家で、やり手で、農奴制の頃の封建領主のような暴君だ。父方から日本人の血が入っているということだから、苦労して成り上がった家の息子ではあるらしいんだが――。その男が、ほんの青二才の時に、まだ少女と言っていい年頃だった氷河の母を見初めて、半ば力づく権力づくで自分のものにした。そうして、彼女との間に子まで成しておきながら、奴は――」
老人が言葉を濁したのは、氷河の母がそれで幸福になれなかったから――むしろ不幸になったから、だったのだろう。

「正式な結婚も認知もしなかった……んですね」
瞬が、彼の代わりに、彼が言いたくなかった言葉を口にする。
老人は、苦い表情で頷いた。
「氷河が生まれて ひと月も経たないうちに、あの男はロシア連邦院の議員の娘と結婚した」
「……」
氷河が母を失ってからも、その男は、彼が捨てた女の産んだ子を顧みることをしなかったらしい。
氷河が聖闘士になる修行のためにシベリアに戻ってきた頃、半身不随になるほどの事故に合い、国家院議員を引退した――ということだった。

人づてにその事故の話を聞いた氷河は――まだ10歳になるかならずの頃である――『天罰だ』と吐き出すように言っただけだったよと、老人は瞬に教えてくれた。
「その時までわしは、氷河が彼の実父のことを知らずにいるのだとばかり思っていたんだが……。父のことなど知らない振りをしながら、氷河はずっと、あの子の母を捨てた男を憎み続けていたんだろう」
――と。

自分が実子を望めなくなったことを知った氷河の父は、それからまもなく、使いの者に大金を持たせて、氷河を迎えによこしたのだそうだった。
氷河は、
「奴の葬式になら、冬送りの祭りに着るような派手な道化の衣装を着て行ってやるから、その時がきたら呼んでくれ」
と言って、使いの者を追い返してしまったらしい。
「氷河は、あの男と じかに顔を合わせたことはないはずだ。氷河は、顔も知らない男を憎んで憎んで――あれほどの憎しみも、時が経つと薄れるものなのかねぇ……」
老人は、瞬を見ずにそう言って、窓の外に広がる暮れの空を眺め長嘆した。

瞬は、そんな老人の打ち明け話を聞いて、真っ青になってしまったのである。
もちろん、どんな憎しみも憤りも、時が経てば、それは薄れるものだろうと思う。
だが、氷河が彼の母をどれほど愛していたか――今も愛しているか――を考えれば、母を不幸にした男への憎悪が 氷河の中から消えるはずがないことは火を見るより明らか。
氷河は、今でも――たった今も――彼の母を悲しませた男を憎んでいるはずだった。
そんな男から、氷河はいったいどうやって、その男の私有地に入る許可を得たというのか。
なぜ、そんな許可を得ようなどということを考えたのか。
考えるだけでなく、氷河は実際にその許可を手に入れてきた――。

瞬は何がどうなっているのかが、よくわからなかったのである。
瞬にわかることはただ、氷河が 彼の母を不幸にした男を許すことは決してないだろうという、その一事だけだった。






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