その夜、氷河と瞬は、本来はヤコフの寝室である部屋で休むことになった。 『氷河と一緒に寝る』と駄々をこねていたヤコフを 老人が彼のベッドに引き取ってくれたのは、彼が恋人同士に気を利かせたから――ではなかっただろう。 彼は、仲間の秘密を知ってしまった氷河の友人と氷河に気を遣ったのだ。 老人は、元からあったベッドの他に、急ごしらえの寝床をもう一つ作ってくれていた。 もし老人が氷河と瞬の仲に気付いて気を利かせ、寝床を一つしか用意してくれていなかったとしても、今夜ばかりは瞬も、氷河へのご褒美に当たる行為を彼と楽しむ気にはなれなかっただろう。 「氷河……あの山に入る許可を取るのって、すごく難しいって聞いたんだけど」 老人がその事実を氷河の友人に告げていいものかどうかを迷ったように、瞬もまた、その事実を知ってしまったことを氷河に告げるべきかどうかを迷った。 考えあぐねたまま、瞬が口を開いたのは、高さの違う寝台に二人が別々に横になってから。 まるで探りを入れるような口調で、氷河にそう尋ねることになったのは、瞬がまだ迷いの出口に辿り着いていなかったからだった。 というより、氷河ではなく瞬自身が、『自分は氷河に何をさせてしまったのか』を知ることを恐れていたからだった。 窓の外では、東京で見るものとは桁違いに強く大きな光を持った星たちが瞬いている。 それらの星たちは、瞬の悪い予感を嘲笑っているようでもあり、悲しんでいるようでもあった。 「沙織さんが金にものを言わせて 話をつけてくれた。瞬の思い出のためだと言ったら、沙織さんも張り切って――」 「さっき、沙織さんに確かめたの。そんな話、聞いてないって」 「……」 「氷河、どうやって」 「……誰かがおまえに余計なことを言ったのか?」 『誰か』は、氷河のために その秘密を氷河の仲間に知らせてくれたのだから、瞬はその『誰か』が誰であるのかを氷河に告げるつもりはなかった。 もちろん、氷河は その『誰か』が誰なのかを察していただろうし、彼自身も瞬同様、その人を責めるつもりはなかっただろうが。 瞬より低いところにある寝床に横になったまま、氷河が、あまり気負った様子はなく、だが吐き出すように言う。 「ふん。血の繋がった ただ一人の息子に頭を下げられたら、あんな男でも 願いをきいてやろうという気になったらしい。老けたせいで以前より弱気になったのかもしれないな。よくは知らんが」 それはそうだろう。 氷河は彼の実父のことを『よくは知らない』。 あの老人の言ったことが、氷河とその父の間にあったことのすべてであるなら、氷河は、スヴォルキンなる男の私有地に入る許可を得にいった その時に、初めて彼の父に会ったことになるのだ。 瞬の悪い予感は当たった。それも最悪の形で。 どれほど憎んでも飽き足らない男に、氷河は頭を下げたのだ。 取るに足りない――あまりにも他愛ない、馬鹿馬鹿しいほど些細な“目的”のために。 瞬は、まるで得体の知れない恐怖に怯える人間のように、恐る恐るベッドの上に身体を起こした。 「氷河……僕のために……?」 「あの男のためではないな」 実の父親を『あの男』と呼ぶ。 彼の母を不幸にした男への氷河の憎しみは、やはり消えてはいないようだった。 瞬は、そう思わないわけにはいかなかった。 そんな相手に、氷河は頭を下げた。 その時、氷河はいったいどんな思いに支配されていたのだろう。 怒りか、屈辱か、それとも己れの無力、あるいは母への罪悪感――。 いっそ、自分にそんなことをさせた恋人の冷酷を恨んでくれていたならと、瞬は思ったのである――そうであってくれと、瞬は願った。 「氷河……花を見たいなんて、僕のただの我儘なんだよ! 氷河が、氷河のマーマにひどいことした人に頭を下げる必要なんてないんだよ! あの花を見たいっていうのは、僕の……僕のただの我儘だったのに……!」 「おまえの喜ぶ顔を見たいというのも、俺のただの我儘だ」 「氷河……」 氷河の我儘を叶えてやることは、今の瞬にはとてもできそうになかった。 喜べるはずがないではないか。 実父へ向かう氷河の憎しみは、彼の母への愛情の裏返しである。 瞬は、知らぬこととはいえ、氷河に母を裏切らせてしまったのだ。 「アテナ好みの展開だと思わないか。愛は憎しみを凌駕する。父への憎しみも、おまえへの愛には敵わなかった。感動的だろう」 氷河はそう言って笑ってみせるが、事実はそうではない。 氷河の中の父への憎悪は消えてはいない。 消えるはずがないのだ。 氷河の母は既に亡く、彼女の不幸不運はもはや、どんな行為でも後悔でも謝罪でも埋め合わせることはできないのだから。 氷河は憎しみを忘れたわけではないのに、憎しみを無理に押し殺し、何も知らない我儘な恋人のために、憎い男に頭を下げることをしたのだ。 そうしなければ、我儘な恋人の願いを叶えてやることができないから。 氷河は悔しかったに違いないのに。 屈辱を感じていたに違いないのに。 無思慮な瞬の思いつきが、氷河につらいことを思い出させ、つらいことをさせてしまったのだ。 「僕は、あの写真集の写真を、氷河と二人で見ていられるだけで十分だったのに、どうして……」 こらえきれず、瞬の瞳から涙が零れ落ちる。 それは あとからあとから溢れてきて、どうしても瞬には止めることができそうになかった。 氷河が寝床の上に身体を起こし、瞬の頬にその手をのばしてくる。 その指に慰められても瞬の涙は止まらず、彼の指を更に濡らしただけだったが。 「泣くな。大したことじゃない。俺が見たかったのは、おまえの笑顔だぞ。おまえの泣き顔じゃない」 「そんなこと言ったって……!」 「喜んでくれないのか」 氷河が 少し気落ちした様子で、瞬に尋ねてくる。 氷河はどうして そんな残酷なことを訊いたりできるのだろうと瞬は思ったのである。 泣きながら、そう思った。 「どうして喜んだりできるの! 僕は、僕がいちばん傷付けたくない人を傷付けてしまったんだよ……!」 今こそ――こんな時こそ、氷河の胸に身を投げ出し、その温もりで この苦しみを少しでも やわらげてほしいと思うのに、浅慮で冷酷な恋人にはそうすることも許されない。 俯き嗚咽を洩らすことしかできない愚かな恋人は、だが、いつのまにか氷河の腕と胸に抱きしめられていた。 「そんなことはないぞ。それは まあ……あの男への禍根が綺麗さっぱり消えたわけではないが、おまえの喜ぶ顔を思い浮かべたら、奴への憎しみなんて大した問題じゃないと思えた。これは本当だ」 「氷河……」 「だから泣かないでくれ。俺は傷付いていないし、苦しんでもいない。かえって楽になったくらいだ。俺はおまえに感謝している。おまえに会えなかったら、俺はいつまでも あの男への憎しみに囚われたまま、自分の不幸を嘆き、自分の運命を恨むだけの男でいただろうからな」 そんなことを言われても、瞬の涙は止まらなかった。 どうしても止まらなくて、結局 瞬はその夜一晩を、氷河の胸で泣き明かすことになってしまったのである。 |