BABY BLUE






盛夏を乗り越えておきながら、日本の夏には耐えられないと言って、3日前 突然シベリアに里帰りしたばかりだった氷河が、その腕に一人の赤ん坊を抱いて城戸邸に帰ってきたのは、残暑厳しい9月のある日。
夕暮れにはまだ間があったが、アブラゼミは今日はノー残業デーを決め込んだらしく、城戸邸の庭に響いているのはヒグラシの少し寂しげな声ばかり。
そんな日のそんな時刻だった。

シベリア土産としては あまりポピュラーではない大荷物を右手に抱えてラウンジに入ってきた氷河は、
「それは何だ?」
と星矢に問われると、
「人間の赤ん坊というものだ」
と、至極真面目な顔をして答えてきたのである。

「それは見ればわかるが、いったいどこの誰の子なんだ」
質問者の意図を汲みとっていないらしい氷河に、紫龍が重ねて尋ねた時、彼はまだその赤ん坊が とんでもない問題児だということに気付いていなかった――考えてもいなかった。
たとえば、誰かの忘れ物を拾ってきたとか、誰かに押しつけられて しぶしぶ預かってきたとか、せいぜい捨て子を見付けてきたくらいのものだろうと、紫龍は思っていたのである。
他に、氷河の腕の中に赤ん坊が収まることになった理由を、彼は――星矢も――思いつけなかったのだ。

「1年ほど前に知り合った女が母親なんだが、事故で死んでしまってな。俺しか引き取り手がいないんだ」
「おまえしか……って、なんでおまえなんだよ。母親がいなくたって、子供には父親ってもんがいるだろ」
星矢が、星矢にしては至極常識的な意見を述べる。
星矢の常識に、だが、氷河はあまりにも非常識な答えを返してよこした。
非常識――と言っていいだろう。
彼は、時間を持て余した人間が暇潰しの話をするように 何ということもない声音と表情で、
「俺の子だ。似てないか」
と言ってきたのだ。
そう言いながら、氷河が、抱えていた赤ん坊を三人掛けのソファの中央にそっと下ろす。
赤ん坊は、初めて見る家の初めて見る天井に、丸い瞳をきょときょとさせていた。

「へっ」
氷河の非常識な答えを聞いた瞬間、星矢は、ほとんど反射的に、彼の仲間であるところのアンドロメダ座の聖闘士の方に視線を走らせることになったのである。
その視線の先で、3日振りに帰ってきた金髪男に駆け寄ろうとしていた瞬が、ぴたりとその足を止める。
その表情を確かめる勇気は、星矢には持ち得ないものだった。
慌てて瞬から視線を逸らし、代わりに、星矢は、氷河が城戸邸に持ち込んできた『俺の子』なる物体の顔を覗き込むことをしたのである。

赤ん坊の髪と目の色は黒。
顔立ちは典型的モンゴロイド。
可愛い赤ん坊ではあったが、氷河に似たところは何ひとつない。
それだけを確かめてから、星矢は、勇気を奮い起こして、その視線を再び ゆっくりと瞬の方へと巡らせたのである。

瞬は、ほぼ無表情――だった。
氷河が告げた“非常識”に腹を立てたり、泣いたりする以前。
もしかすると瞬は、その時はまだ 胸中に確とした驚きの感情すら抱けずにいたのかもしれない。
ただ、瞬が氷河の非常識な言葉を喜んでいないことだけは、星矢にもわかった。

「ぜ……全然似てねーじゃないか。冗談なら、笑える冗談を言え」
震える声で無理に笑ってそう言うと、星矢は、赤ん坊の上に傾けていた身体を立て直した。
紫龍と視線で合図を交わし、二人がかりで氷河の腕を両脇から掴みあげ、引きずるようにして 非常識を極めている男の身体を部屋の隅に運んでいく。
同じ部屋の中にいる瞬に完全に聞こえないように氷河の素行を問い詰めるのは無理――ということはわかっていたが、それでも星矢はできるだけ低く押し殺した声で、金髪の非常識男をなじることになったのである。
「おまえ、なに ふざけた冗談ぶっこいてんだよ! 瞬がびっくりしてるだろ!」
「俺は冗談など言っていない。あれは俺の子だ」

瞬に幾度も聞かせたくない言葉――を、氷河が普通のボリュームで繰り返す。
そうすることで、彼は星矢の気遣いを無意味なものにしてしまった。
星矢は、仲間の思い遣りを無にする男の言い草に、当然のことながら憤りを覚えたのである。
星矢は、瞬のためというより、氷河のために声をひそめてやったというのに、氷河は、言ってみれば恩を仇で返してくれたのだ。
氷河がその気ならと思ったわけではないだろうが、星矢は彼の声のボリュームを落とすのをやめた。
彼の通常の――つまりは、常人の1.5倍の音量で、飄々ひょうひょうとした顔の氷河を思い切り怒鳴りつける。

「氷河っ! おまえ、そんな悪質な冗談を聞かされて、瞬がどんな気持ちになるか わかってんのか! 1年前に知り合った女との間にできた子だ !? それがほんとなら、おまえはこの1年間、瞬とその女を二股かけてたってことになるんだぞ!」
「ただの浮気ならまだしも、子供というのはいただけない。瞬にはどう足掻いても作れないものを持ち出してくるのは残酷というものだ」
「おまえ、自分の立場がわかってんのかよ !? 先に瞬に惚れたのもおまえなら、その気のなかった瞬を拝み倒して 瞬とそういう仲になったのもおまえなんだぞ! おまえが理性的で自制心のある男だったら、瞬は今もおまえのただの清らかな お仲間でいられたんだ。んな不道徳に瞬を引きずり込んどいて、今更どのツラさげて、あんなもの瞬に見せられるんだよっ!」
「おまえには誠意というものはないのか」

星矢の激昂は至極尤も。
紫龍の指摘も、氷河に弁解の余地を与えないものだった。
それは、氷河も承知していたのだろう。
彼は申し開きの一つ、言い訳の一つも口にしなかった。
彼はただ、抑揚のない声で、
「だが、俺の子なんだ」
と言っただけだった。

氷河は――恐ろしいことに、冗談を言っているようには見えなかったのである。
少なくとも、星矢と紫龍の目には。
では、それは冗談ではないということになる。
考えてみれば、瞬を傷付ける可能性のある冗談や 瞬との仲が破綻する可能性のある虚言を、氷河が寝言にでも口にするはずがない。
ゆえに、それは冗談でも嘘でもない。
だが、もし氷河の言がたちの悪い冗談ではなく事実なのだとしたら、それは冗談よりずっと 悪いものだった。
なにしろ、事実というものは、聖闘士の力をもってしても変えることのできないものなのだ。

「しゅ……瞬、泣くなよ。泣くんじゃないぞ。待ってろ、とにかく沙織さんを連れてくるから!」
星矢がそう言いおいて ラウンジを飛び出ていくことになったのは、聖闘士の力をもってしても変えることのできない事実も、神の力でならどうにかできるかもしれないと考えたから――ではなかっただろう。
仲間に責められても一向に反省の色を見せない氷河をアテナに叱ってほしかったから、あるいは、氷河の非常識な発言以降ずっと沈黙を保っている瞬の側にいることに星矢自身が耐え難さを感じていたからだった。――かもしれない。






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