「氷河……あの……」
星矢が沙織を呼ぶために飛び出していったラウンジに、不安な沈黙が漂う。
その沈黙を瞬が破ったのは、星矢がラウンジを飛び出ていってから約3分後。
赤ん坊のすぐ横に座っている氷河の側に、瞬は恐る恐る近寄っていった。 

瞬がそれまで氷河の側にいけずにいたのは、実は、星矢の怒りに圧倒され、自分自身の感情と思考を形作ることができずにいたせいだった。
氷河に子を成すほど深い付き合いの女性がいたことや、まだ言葉も話せないような乳児の存在を 今まで彼が隠し通していたこと――を、にわかに信じることができなかったせいもある。
この子供が本当に氷河の子で、氷河が子供の存在を隠し通せていたのだとしたら、それはつまり、これまで彼がこの赤ん坊の世話を母親任せにしていたということになるのだ。
星矢がいなくなって少し落ち着いてものを考えられるようになった瞬はまず、氷河にそんな無責任な男であってほしくないと願った。
これは嘘だと、悪乗りの過ぎた冗談だと、氷河に言ってほしいと瞬は思ったのである。
しかし、瞬の切ない願いは叶えられなかった。

氷河に言ってほしいと瞬が願った言葉を口にはせず、彼は、
「……こういう時、劣性遺伝の塊りは不利だ。どうして信じてくれないんだ」
と、まるで自分は何も悪いことはしていないというような口振りでぼやくことだけをした。
「氷河……」
彼に愛されていると うぬぼれていた人間が、彼の言葉に傷付いているかもしれないという可能性に思い至っていないような 氷河のその口振りにこそ、瞬は傷付いたのである。

「似たところか……。ひとつくらいは、似たところもあるだろう。なあ、瞬。どこかないか」
「……」
瞬は、まさかそんなことを、全く悪びれたところのない口調の氷河に尋ねられることがあるとは思ってもいなかった。
瞳の奥が熱くなってくる。
自分の目が今どういう状態にあるのかを察した瞬は、その目を隠すために、俯くようにして氷河の子だという赤ん坊の顔を覗き込んだ。
大きな黒い瞳の持ち主が、今にも泣き出しそうなオトナの瞳を、不思議そうに見詰め返してくる。
赤ん坊というものは、小さくて邪気がないがゆえに、皆 可愛いもの。
瞬も、それは認めないわけにはいかなかった。
子供には何の罪もない――ということだけは。

だから、瞬は、今 瞬きをして涙を零してしまうわけにはいかないと考えて、無理にその瞳を見開いたのである。
「女の子?」
「えっ」
まさかそんなことを訊かれると思っていなかったのは、氷河も同じだったらしい。
彼は少しく慌てた様子で、一瞬間、視線をあらぬ方向に泳がせた。
「あ、ああ、赤ん坊の性別を訊く時には、『男か』とは言わず『女か』と訊くのが日本の作法らしいな」
日本の作法にもロシアの作法にも囚われず、ひたすら自分の流儀だけを貫こうとするような男が 突然 日本の作法などというものを持ち出したことに奇異の念を抱いた紫龍は、疑うような視線を金髪の二股男に向けることになったのである。

ちょうどその時だった。
星矢を従えた女神アテナことグラード財団総帥城戸沙織がラウンジに飛び込んできたのは。
「氷河が子連れで帰ってきたんですってっ !? 」
ラウンジにやってきた沙織は、先刻の星矢同様、問題の赤ん坊を探すより先に、その父親だと言い張る男を見るより先に、まず瞬の様子を一瞥した。

そんな沙織の視線に、光速の拳を見切ることもできる目を持つ氷河が本当に気付かなかったのか――。
気付いていないはずはないのに、氷河は、沙織のその視線の意味するところを理解できている人間であればまず言わないだろうセリフを口にした。
つまり、彼は、またしても、瞬の傷心にも沙織の懸念にも気付いていないような呑気な声で、
「どうです。可愛いでしょう」
とアテナに尋ねることをしてのけたのである。

が、ここで氷河に同意して頷くことが沙織にできるはずもない。
彼女は、のんびりした氷河の声とは対照的に険しい声で、
「氷河、いったい この子をどこから連れてきたの!」
と、彼女の聖闘士を問い質すことになったのである。
「どこからと言われても……。とりあえず、日本国内からですが」
ふざけているとしか思えない答えを返してくる氷河を、沙織は睨みつけた。
これは一つの命をかかわること――小さな命であるからこそ重い、一つの命に関わる重大事なのだ。
決して ふざけて語っていいようなことではない。

氷河のふざけた答えを、沙織は完全に無視した。
はっきりと形を成そうとしている頭痛を追い払おうとするように、左右に軽く首を振る。
「アテナの聖闘士が嬰児誘拐なんて、とんでもない話だわ」
「誘拐なんて人聞きの悪いことを言わないでください。これは俺の子です」
「氷河、きっさまー!」
アテナの前でも非常識な主張を翻さない氷河に、さすがに堪忍袋の緒が切れたらしい星矢が噛みつきかける。
アテナの詰問や星矢の激昂をすら軽く受け流す素振りを見せた氷河の顔を強張らせたのは、いきり立つ星矢の後ろに立っていた紫龍の、
「自分の子供の性別も知らない父親がどこにいる」
という低いぼやき声だった。

「それは……俺は今まで本当に無責任な父親だったから――」
言い訳がましい口調で、正しく言い訳を口にし始めた氷河を、沙織が疑わしげな目で見やる。
無意味な冗談を聞くのはこれで打ち切りにして、もっと建設的な対処に取りかかりたいと考えているのが明白な様子で、沙織は氷河に一つの命令を下した。
すなわち、沙織は、
「氷河、その悪質な冗談を、瞬の目をまっすぐに見て 言えるものなら言ってごらんなさい」
と、有無を言わさぬ断固とした口調で、白鳥座の聖闘士に命令したのである。
それで氷河は真実を言うしかなくなるだろうと、彼女は思っていた。
思っていたのだが。

あろうことか氷河は、アテナの下した命令に、ほとんど逡巡らしい逡巡を示すことなく従ってみせたのである。
「瞬。これは俺の子だ」
たとえ、本当にその赤ん坊が氷河の子であったとしても、瞬の前で断言するには躊躇を覚えるはずの言葉を、氷河は堂々と真正面から 瞬に告げてしまったのだ。

いくら何でもこれは(瞬にとって)過酷である。
氷河の断言に その場で最も慌てることになったのは、彼にそうするよう命じたアテナ当人だった。
彼女は、アンドロメダ座の聖闘士にその場で泣き出されることを、半ば本気で覚悟したのである。

が、瞬は泣かなかった。
否、泣き出す暇も与えられなかった――と言うのが正しい。
氷河の断言を聞いたアテナの顔から血の気が引いた その瞬間、まるで瞬の心を代弁するように激しく泣き出したのは、ソファの上に寝かされていた赤ん坊の方だったのだ。
最初は『ふにゃあ』という寝ぼけたネコのような声だったそれは、すぐに、道に飛び出してきた猫をよけようとして急ブレーキをかけた車が発するような甲高い泣き声に変わり、しかも その声は一向に止む気配を見せなかった。

喉も裂けよと言わんばかりの赤ん坊の泣き声のすさまじさに、子供の父親であるはずの氷河 及び星矢、紫龍が、その場に棒立ちになる。
いったい何が起こったのかが理解できずにいる三人に比べれば、まだ沙織と瞬の方がましな対応を取れたといっていいだろう。
少なくとも二人は、大いに慌てることはできたのだから。

「まあ、大変。どうしたらいいの。うちにはおむつもミルクもないわよ!」
「病気か何かということは……」
「ね……熱はないようだけど」
「でも、顔が真っ赤です」
氷河たちに比べればましとはいえ、火がついたように泣き続ける赤ん坊に何をしてやることもできないのは、瞬と沙織も同じ。
この突発事故の解決に、沙織は結局 人の手を借りることにした。

「ちょ……調理師のサトウさんに見せてみるわ。彼女は4人のお子さんを育てあげた育児のベテランよ」
そう言って、沙織が、泣き叫んでいる赤ん坊を抱きかかえる。
それは氷河が赤ん坊を抱えているより違和感のある光景だったのだが、今ばかりは、星矢にも、その事実に言及し沙織をからかう余裕を持つことはできなかった。
病気でないなら狂気としか思えないほど激しい赤ん坊の泣き声に、アテナの聖闘士たちは ひたすら呆然とし、そうして赤ん坊の身を案じることしかできなかったのである。
「赤ちゃんは泣くのと眠るのが仕事だっていうから、きっと大丈夫……だと思う」
あまり自信がなさそうな様子の瞬にそう言われて、アテナの聖闘士たちは何とか気を取り直したのだった。


一般的な個人の住居であったなら、赤ん坊の泣き声が聞こえなくなることはなかったろうが、城戸邸は各部屋の防音が ほぼ完璧な状態になっている。
沙織が赤ん坊を抱いてラウンジを出ていくと、そこには元の晩夏の夕暮れの静けさが戻ってきた。
それはまさに台風一過のあとの静けさで、その静けさの中で、氷河は初めて、彼以外の人間にも理解できる言葉を口にした。
「瞬。すまん」
そう言って、氷河が瞬に頭を下げる。
それが嘘や冗談だったというのなら 瞬にも彼を責めることができただろうが、事実だというのなら――事実なのであれば――瞬には氷河を責めることができなかったらしい。
瞬は夕暮れの声より静かな声で、氷河に尋ねることをしただけだった。

「あの子は本当に氷河の赤ちゃんなの」
「そうだ」
まっすぐに瞬の目を見詰めて、氷河が答えてくる。
同じようにまっすぐに、瞬は、子供の父親だと主張する男を見詰め返したのである。
氷河はそれでも目を逸らさない。
先に目を逸らしたのは――というより、顔を伏せてしまったのは――瞬の方だった。
「そう……」
溜め息のような呟きを洩らし、瞬が、ふらふらと頼りない足取りで窓際に置かれている藤椅子に歩み寄っていく。
その椅子に力なく腰をおろすと、そのまま瞬は両の肩を落として俯いてしまった。

そんな瞬の姿を見せられても、氷河は何も言わない――あるいは何も言えないだけだったのかもしれないが――ともかく彼は何も言わなかった。
星矢までもが静かになってしまったのは、ここで氷河を責めることは、瞬の傷心を更に増すだけだということがわかっていたからだったろう。
時が止まってしまったかのように、動くもののないラウンジは、ただ静かだった。






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