「おなかがすいていたらしいわ。半日以上、何も口にしていなかったんじゃないかって、サトウさんは言っていたわよ。親はいったい何をしていたの!」 時が止まってしまっているようだったラウンジの時計が動き出したのは、それから30分後。 沙織が、彼女の聖闘士たちの許に戻ってきてからだった。 赤ん坊はサトウさんに任せてきたらしく 空手で戻ってきた沙織はそう言って、赤ん坊の親を名乗る男を睨みつけた。 「それで、あの子は――」 親が責められていることを理解していないとしか思えない口調で、氷河が沙織に尋ね返す。 嫌味の通じない男に、沙織はほとんど無意識に眉根を寄せることになったのだった。 「二階の東の端の客用寝室を臨時の子供部屋にしました。さっき ベビーフードを買いに人を出したけど、とりあえずジュースを薄めたものを飲ませたら、それで落ち着いてくれて、今は静かに眠っているわ」 「お世話をかけます」 氷河が、氷河のものとも思えない殊勝な言葉を吐いて、ラウンジを飛び出していく。 それが子供の身を案じる親の行動に見えることが――裏切った恋人から逃げるためにとった行動に見えないことが――星矢を不愉快にした。 「あんな馬鹿は見限った方がいいぞ、瞬。冗談にしても、言っていいことと悪いことがある。冗談じゃなかったら、なおさら、あんな子連れ二股野郎は――」 言いかけた言葉を、星矢は途中で喉の奥に押し戻した。 星矢は、それこそ冗談でも、そんな人代名詞を繰り返し瞬に聞かせたくなかったのだ。 「冗談にしても……無神経で悪質だ……!」 星矢の低く咆えるような声に、瞬が力なく首を横に振る。 「……冗談なんかじゃないでしょう。氷河はまっすぐに僕の目を見て言ったもの。氷河の子だって」 「そんなの知るか! あんな奴、もう俺たちの仲間でも何でもねーよ!」 まるですっかり諦めて――事実を受け入れるしかないのだと諦めているような瞬の様子が、星矢は腹立たしくてならなかった。 なぜ瞬が、こんな消沈した様子で、氷河の素行不良を諦め受け入れてしまわなければならないのか、星矢にはどうしても合点がいかなかったのである。 「そんなこと言わないで。あの子が本当に氷河の子で、お母さんがいないっていうのなら、氷河はあの子を育てる義務を負っていると思うし、だとしたら、僕は――僕も――」 「氷河と一緒に子育てするとか言うつもりじゃねーだろーな!」 いったい瞬は何を考えているのかと、星矢は声を荒げることになったのである。 瞬が許しても、星矢は許す気になれなかった。 氷河は仲間を裏切ったのだ。 最も裏切ってはならない仲間を、氷河は裏切り傷付けた。 そんなことが許されるなら、この世にアテナの聖闘士などいても無意味だろうと、星矢は思ったのである。 瞬が氷河を責められないというのなら、代わりにせめてやるのが仲間の務め。 そう考えて、星矢は、瞬のために、言いたくない言葉をもう一度、今度ははっきりと言葉にした。 「あれが本当に氷河の子なら、氷河は、この1年間、おまえと別の女を二股かけてたことになるんだぞ! そんな奴を なんでおまえは許しちまうんだよ! 許していいことじゃねーだろ!」 せめて腹を立てるくらいのことはしろと、本音を言えば、星矢は瞬をも責めたかったのである。 瞬が一向に腹を立てる素振りを見せてくれないから、星矢の怒りは強まり深まるばかりだったのだ。 が、星矢がいくら煽っても、瞬は星矢の期待に応えてくれない。 代わりに星矢に与えられたのは、 「1年間二股をかけていた? それはどういうこと?」 という、沙織の怪訝そうな声だった。 沙織はなぜそんなことを訊いてくるのかと、星矢こそが首をかしげることになったのである。 「だってそういうことになるだろ。氷河は、あの赤んぼが、1年前に知り合った女との間にできた子供だって言ってたんだから」 「1年前? まあ、そうなの!」 いったい沙織は、氷河の二股行為の何が嬉しいのか――。 急に軽快な響きを帯び始めた沙織の声に、星矢は思わず顔を歪めてしまったのである。 星矢の不機嫌そうな顔を見て、沙織は軽く口角を持ち上げた。 「氷河があの赤ちゃんの母親と知り合ったのが1年前だというのなら、あの子は氷河の子ではないということになるのよ」 「なんで?」 「サトウさんに聞いたのだけど、あの赤ん坊は多分 満1歳くらいの女の子だそうなの」 「だから?」 それは星矢にも察しがついていた。 以前、星の子学園の門前に赤ん坊が置き去りにされていたことがあって、その子供がちょうど氷河の連れてきた赤ん坊と同じような様子をしていたのだ。 その時、星の子学園の園長は『どう見てもこの子は1歳そこそこくらいだから、ここでは預かれない』と言って、その子を別の施設に移送する手続きをとった。 だが、それがどうだと言うのだろう? 星矢の鈍さに焦れたように、沙織が語気を強める。 「算数もできないの。赤ちゃんというのは、受精してから十月十日――260日以上 お母さんのおなかのなかにいて、それから生まれてくるのよ。氷河が、今から1年前に知り合った女性との間に子供を作ったとしたら、その子は生まれてせいぜい2、3ヶ月の赤ちゃんでなければならないの。満1歳の子供がいると言い張るのなら、氷河はせめて2年前に知り合った女性との間にできた子供だと言うべきだったわね」 「あ、そっか!」 沙織の説明に、やっと星矢が合点する。 そして、星矢は、おそらく氷河も自分と同じ誤りを犯し――子供が母親の胎内にいる期間を考慮することをせず、見掛けの年齢だけで判断して――『1年前に知り合った女との間にできた子供だ』と言ったに違いないと思った。 やっと合点したらしい星矢に、沙織がゆっくりと頷く。 「ともかく、あの子は氷河の子ではありません。まさか本当に誘拐してきたわけではないでしょうけど、これはやはり警察に届けないわけにはいかないわね」 あの赤ん坊が氷河の子でさえないのなら、星矢はあの乳児が 警察に引き取られるのでも、城戸邸で泣き叫んでいるのでも、どちらでもよかった。 氷河が瞬を裏切ってさえいなかったのであれば。 「よかったな、瞬!」 すっかり浮かれ安堵して、星矢は思い切り瞬の背中を叩いた。 その弾みで瞬の上体が頼りなく ぐらりと揺れるのを見て、星矢は、瞬がこの“真実”をあまり喜んでいないことに気付いたのである。 瞬の表情は、むしろ、その翳りを濃くしていた。 確かに、これですべての謎が解けたわけではなかった。 あの赤ん坊が氷河の子ではないというのなら、子供嫌いを公言していた氷河が自分の子でもない赤ん坊を自分の子と偽って仲間たちの許に連れてきたのはなぜなのかという、新たな謎が生じることになるのだ。 「なぜ氷河はこんな嘘をついたのかしらね。どこかで拾ってきたとか預かってきたとか、本当のことを言ってくれていたら、瞬を傷付け……いえ、星矢をこんなに怒らせることもなかったでしょうに。あの子が氷河の子でなくても、私たちはあの子を大切にしたし、本当に母親がいないのなら、ここに引き取ることだって考えないでもなかったのに……」 「それはわかんねーけど、何か事情があるんだろ」 「おまえに誤解されて、おまえを失うことになっても仕方がないと思えるほどの事情だ。あまり責めてやるな」 紫龍が気遣わしげに、“裏切られた恋人”でなくなった瞬に忠告する。 瞬は、瞬きだけで龍座の聖闘士に頷いたのだが、紫龍の忠告は星矢には得心できないものだった。 星矢は、仲間たちの前で大いに不服げに口をとがらせた。 「なんで『責めるな』なんだよ! ぐうの音も出ないくらい とっちめてやるのが筋ってもんだろ!」 あの赤ん坊が氷河の子供でないことがわかって、星矢の声は目に見えて明るいものに変わっていた。 が、瞬は、星矢のように単純に素直に、氷河の嘘が嘘だったことを喜ぶことはできなかったのである。 紫龍の言う通り、『おまえを失うことになっても仕方がないと思えるほどの事情』があって、氷河はこんなことを言い出したに違いないのだから。 |