「氷河」
臨時の子供部屋になっている客用寝室のドアを、瞬は音を立てぬよう静かに開けた。
窓際にあるベッドの枕元に置かれた椅子に掛けていた氷河が、瞬の姿を認めて立ち上がる。
そうしてから、彼は、彼の恋人の名を呟くように口にした。
「瞬……」
彼が瞬の様子に戸惑っているのは明白で、氷河の戸惑いの訳も、瞬にはわかっていた。
彼は、彼に裏切られた恋人が、彼を責めてくれないので、対応に困っているのだ。

「眠ったの?」
「……ああ」
氷河の子ではない子は、先程の狂気のような泣き声が嘘だったように静かになり、あどけない顔をして すやすやと眠っていた。
大人用のセミダブルのベッドの中央に寝かされている幼い子供は、実際より かなり小さく見える。
瞬は指先だけで、子供の髪の毛をそっと撫でた。
そのやわらかさが、瞬にはなぜかひどく切なく感じられたのである。

「この子が本当に氷河の子で、お母さんがいないのなら、僕、そのお母さんの代わりになれないかって思ったの」
「瞬……それは――」
それは、氷河には想定外の言葉だった。
裏切られた恋人は、裏切った恋人の前で ただ泣き続けるか、あるいは恋人の不実をなじる――そのどちらかの反応を示すものと、氷河は思っていた――覚悟していたのだ。
悲嘆と怒り――瞬がそのどちらの反応も示してくれないので、氷河は、瞬に対してどう振舞えばいいのかがわからず、戸惑い迷っていたのである。

なぜ瞬は嘆きもしなければ怒りもしないのか。
その理由は今も氷河にはわからないままだったが、瞬の眼差しは静かで穏やかで、むしろ裏切り者の恋人を気遣ってさえいるようだった。
だから、氷河にはわかったのである。
この赤ん坊が白鳥座の聖闘士の子供でないことを瞬は知っている――白鳥座の聖闘士のついた浅はかな嘘は瞬にばれてしまったのだ――ということが。

「氷河は赤ちゃんがほしいの?」
眠っている赤ん坊を気遣っているのか、あるいは瞬の心が打ち沈んでいるせいなのか、瞬が、抑揚のない小さな声で尋ねてくる。
氷河は首を横に振った。
「俺は子供は嫌いだ。俺が子供だった頃、どれだけ可愛げがなくて生意気なガキだったかを思えば、俺が子供なんてものを好きになれるはずがない」
「でも、実際に この小さな命を見ていたら、愛しいと思えてくるでしょう? 氷河の目は、嫌いなものを見ている目には見えないよ」
「……」

それは瞬の言う通りだった。
氷河は、この子供を嫌いではなかった。
だが、好きかと問われると、そうだと自信を持って答えることもできない。
氷河が何の迷いもなく、どんな こだわりも含みもなく、『好きだ』と自信をもって断言することのできる人間は瞬ひとりだけだった。

「ロシアの――宝飾品メーカーが国内限定・数量限定で、琥珀と水晶でできたオーナメントを売りに出したんだ。雪の結晶と待雪草をモチーフにした、おまえの好きそうな、小さくて可愛い――。おまえに贈ったら喜んでもらえるに違いないと思ってレニングラードに飛んで、とんぼ返りしてきた。俺はすぐにおまえの許に戻るつもりだったんだが、空港で――空港のターミナルで若い男と女が騒ぎを起こしているのに出くわしたんだ」
「騒ぎ?」

氷河は、日本の夏には耐えられないと言って、城戸邸を飛び出しロシアに向かった。
本当なら、今頃は、故国で手に入れてきたプレゼントを瞬に渡し、瞬についてしまった別の嘘を瞬に優しく責められているはずだったのだ。
その予定が甚だしく狂ってしまったのは、ある非常識な男女のせいで、彼等のおかげで氷河の幸福なプランはすっかり台無しになってしまったのである。

「あの赤ん坊を抱えた女が、産みたくて産んだんじゃないとか、責任を取れとか、認知しろとか、養育費を出せとか、そんなことを 空港のガレリアに響き渡るような大声で叫んでいた」
氷河の言葉を聞いた瞬が驚いたように瞳を見開く。
氷河は、本当は、瞬にこんな話をしたくはなかった。
「男の方は、自分の子かどうかもわからないのに、責任を取る必要はないとか、金を出す気はないとか、そんなことを わめいて、逃げようとしていたな」
「こんなに可愛い子なのに……」

こんな話を瞬にだけは聞かせたくなかったのである。
無責任な親たちの心ない振舞いは、親を持たない瞬の心を二重の意味で悲しませることになるに違いないのだから。
ベッドで眠る小さな子供を見詰める瞬の眼差しが、痛ましげで寂しげなものに変わる。
それは、氷河の胸にも痛みを運んできた。

「話がまとまる気配がなくて、いい加減、警備員でもくればいいのにと思いながら、俺は その脇をやり過ごそうとしたんだ。そうしたら、あの女が急に……!」
自分の声が刺々しいものに変化したのが、氷河自身にもわかった。
あの女があんなことさえしなければ自分は瞬を傷付けずに済んだのだと思うほどに、氷河の胸中の怒りは増した。
「責任をとってもらえないなら、こんな泣きわめくしか能のない子供はいらないと叫んで、床に叩きつけようとしたんだ。自分の子をだぞ」

「あ……」
まるで、瞬自身がその子供であるかのように――実際に瞬自身が痛みを感じているかのように――瞬はきつく その眉根を寄せた。
これが普通の人間の反応だと、氷河は思ったのである。
あの母親は、だから、一つの心を持った普通の人間ではなかったのだと。

「床に叩きつけられる直前で受け止めて、そのまま連れてきた」
それも短絡的な振舞いだったと、今では氷河も思っていた。
もっと分別のある対処方法があったはずだったのにと。
だが、氷河は、母に愛されていない哀れな子供を、できる限り無慈悲な母親から遠ざけたかったのだ。

「そう……。よかったね。こんな小さな子だもの。硬い床に叩きつけられてたら、死んじゃってたかもしれない」
「……」
瞬の、静かな――静かな声。
浅はかな男がとんでもない土産を持って帰宅してから、数時間。
なぜ瞬は不実な恋人を責めもせず、泣きもしないのか。
そればかりを考え、答えに行き着けず、困惑することしかできずにいた氷河は、初めて瞬の心に思いを至らせることをしたのである。
何も考えず、考えられずに、ただ呆然としている瞬ではないことは、氷河にもわかっていた。
そして、瞬が、恋人の不実や嘘に傷付かなかったはずがないということも。

謝らなければならないと、氷河は思ったのである。
だが、嘘つきで短慮な恋人を見詰める瞬の眼差しがあまりに優しくて――その眼差しに甘えたくなって、氷河は瞬を抱きしめた。
瞬が、馬鹿な男の背に腕をまわし、その身体を抱きしめかえしてくれる。
瞬の優しい感触に触れた途端、その覚悟をしていたつもりだったのに、実際に瞬を失わずに済んだという安堵の思いが氷河の胸にひたひたと押し寄せてきて、その思いはやがて氷河の胸をいっぱいにした。
心の片隅で、氷河は、大人たちの思惑など何も知らずにすやすやと眠っている子供に対して微かな罪悪感を覚えたのである。

「俺は、母親というものに幻想を抱きすぎているんだろうか」
だから自分は、あの若い母親が許せなかったのか。
好きな男の愛を得ることができずに自暴自棄になっている あの女に、むしろ自分は同情すべきだったのか――。
瞬に触れていると心が凪ぐ。
その穏やかさの中で、氷河は それまで気付かなかった視点に気付き、氷河の中には それまで考えもしなかった考えが生まれてくることになった。
それはおそらく、瞬がそういう考え方をする人間だからなのだろうと、氷河は思った。
そういう考え方ができるから、瞬は人に“優しい”人間だと言われるのだろうと。

「氷河のそれは幻想じゃないでしょ。氷河のマーマは本当にいたんだから」
その優しい人間が、愚かな男のために特別に優しい笑みを浮かべてくれる。
「人間にはね、母性本能なんてものはないんだよ。人間の親は、理性と忍耐と愛情で子供を育てるの。氷河のマーマはそれを持ってた。氷河は氷河のマーマを誇っていいんだ。ううん、これまでよりずっと誇って、感謝すべきなんだよ」
瞬がそう言うのなら、そうしようと思う。
「でも、理性と忍耐と愛情を備えていない人は、子供を持つべきじゃないね」
瞬がそう言うのなら、そうなのだろうと、氷河は思った。






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